3000億円もの巨額資金が、まるで煙のように闇へと消えた。
1990年代初頭、日本中がバブルの熱狂に浮かれていた時代に発覚した「イトマン事件」は、今なお戦後最大の経済事件として語り継がれています。そこには一流銀行のトップから大物政治家の竹下登、さらには闇社会のフィクサーや暴力団に至るまで、信じられないような顔ぶれが次々と登場しました。
まるで映画のような話ですが、すべて現実に起きた出来事です。なぜ、これほどまでの狂乱が生まれたのでしょうか。ウェブメディア『政経電論』編集長の佐藤尊徳氏と、大王製紙元会長の井川意高氏、そしてフリーアナウンサーの新保友映氏の3人が語り合った生々しい証言をもとに、あの時代の表と裏を紐解いていきましょう。
1万円札を振ってもタクシーが止まらない時代
そもそも、すべての発端は1985年の「プラザ合意(先進5カ国がドル高を是正するために協調介入を決めた国際合意)」にありました。これによって急速な円高が進み、日本銀行は景気を支えるために「公定歩合(中央銀行が民間銀行にお金を貸し出す際の基準となる金利)」を当時の史上最低水準である1%近くまで引き下げたのです。
世の中にはお金がジャブジャブと溢れかえりました。銀行は貸し出し先を求めて奔走し、大学生だった井川氏のもとにも、のちにバブル崩壊で破綻する日本債券信用銀行(日債銀)の営業マンが「土地を買いませんか」と日参してきたといいます。不動産を買えば値上がりし、それを担保にまた銀行からお金を借りて次の不動産を買う。経済学ではこれを「信用創造(銀行の貸し出しを通じて、世の中のお金が雪だるま式に膨らんでいく仕組み)」と呼びますが、当時はそのブレーキが完全に壊れていたのです。
日本全体が、まるでディスコ「ジュリアナ東京」のお立ち台で扇子を振って踊り狂っているような状態でした。
当時の東京の夜を思い浮かべてみてください。どれほど異様な光景だったか、想像できるでしょうか。
夜の銀座や六本木では、1万円札の束を振らなければタクシーすら拾えませんでした。当時の初乗り運賃は530円でしたが、ワンメーターで降りようものなら運転手から舌打ちされ、「ゴミ客かよ」と吐き捨てられる始末です。六本木の「金魂巻(キンコンカン)」や「トプカピ」といった流行りの店で飲んでいた客たちは、閉店時間の午前0時が近づくと財布から無造作に3〜4万円を取り出し、店の黒服に「これでタクシーを拾ってこい」と命じました。黒服は溜池の交差点あたりまで走って指で「1万円出す」という合図を送り、タクシーを捕まえては残りの数万円を自分のポケットに収めていたのです。昼の稼ぎに加えてこうした非課税のチップが毎晩のように飛び交い、東京のタクシードライバーの実質月収は100万円に達していたとも言われています。
お金の感覚が麻痺していたのは、夜の街だけではありません。
普段はキープボトルしか飲まない「素飲み」が当たり前だった銀座のクラブでも、ある日突然、地味だったはずのラーメンチェーンの経営者が、1本5万円(当時の仕入れ値は6000〜7000円ほど)のドンペリを銀のアイスペールに何本も抜かせていたことがありました。「どうしたの?」と尋ねるホステスに、その経営者は「本社ビルにしようと3億円で買った中古ビルが、3ヶ月後に9億円で売れて6億円儲かったんだよ」と笑っていたそうです。
企業の交際費に対する課税も今ほど厳しくはありませんでした。現在では1万円の経費を使うのにも稟議書が必要ですが、当時は三和銀行の広報次長クラスで年間5000万円、日債銀に至っては1人で年間1億円もの交際費を使っていた猛者までいたのです。
さらに、その銀行を支配していたのが大蔵省(現在の財務省および金融庁)でした。当時の大蔵省銀行局は、支店の開設からATMを1台置くこと、果ては「女子行員のスカートの丈」に至るまで伺いを立てさせるほどの絶大な権限を握っており、「箸の上げ下ろしまで大蔵省」と揶揄されるほどでした。
そこで各銀行は、将来頭取になるようなエリート行員を「MOF担(大蔵省の英語略称MOFに由来する、対大蔵省の交渉・情報収集担当者)」に任命しました。彼らはまるで江戸時代に幕府の役人を接待した各藩の「留守居役」のように、官僚たちを漬けにして賄賂や過剰な接待を贈り続けたのです。その成れの果てが、のちに大蔵省解体・金融庁発足の引き金となった「ノーパンしゃぶしゃぶ接待事件」でした。
井川氏自身、京都の老舗茶屋「富美代」のバーで飲んでいた際、2階の座敷で父親と宴会をしていた大蔵省の次期事務次官候補たちが舞妓を相手に羽目を外し、素っ裸に腹巻き姿で「ボディコン」と称して踊り狂うという、信じがたい乱痴気騒ぎに遭遇したことがあるといいます。官も民も、まさにタガが外れていた時代でした。
「住銀の別働隊」に忍び寄った甘い罠
そんな狂乱の時代に、イトマン事件は起きました。
イトマン(旧・伊藤萬)は、明治時代に創業された大阪の老舗繊維商社です。昭和恐慌で経営難に陥った際に住友銀行から融資を受け、その後も破綻した大手商社・安宅産業の繊維部門を引き受けるなど、「住銀の別働隊」と呼ばれるほど深い関係を築いていました。
ところが1970年代のオイルショックによる繊維不況で再び経営が悪化すると、住友銀行からひとりの男が送り込まれます。高卒から夜間大学を経て住友銀行の常務にまで上り詰めた実力者、河村良彦氏です。
社長に就任した河村氏は、当初こそ強引な手腕でイトマンを黒字化させました。しかし、バブルの波に乗って総合商社への脱皮を図る中で、次第に危うい取引へと手を染めていきます。
その最初のつまずきが、「石油業転(いわゆる石油転がし)」でした。通常、石油は元売りから系列の販売店へと卸されますが、余った石油を系列外の業者へと横流しし、少しずつマージン(利益)を乗せながら複数の会社の間で書類上グルグルと転売を繰り返す取引です。順調に回っているうちは全員が儲かりますが、どこかの会社が資金繰りに詰まった瞬間、連鎖的に崩壊します。実際、取引先の倒産によって売掛金が回収できなくなり、イトマンは大きな穴を抱えることになりました。
焦り始めたイトマンに、さらなる魔の手が忍び寄ります。きっかけは、住友銀行の「天皇」として君臨していた磯田一郎会長の愛娘でした。
彼女は当時、セゾングループの代表・堤清二氏の実母が経営し、堤氏自身も会長を務めていた美術品販売会社「西武ピサ」に嘱託として勤めていました。ある時、彼女がイトマンに「ロートレックの絵画を買ってほしい」と持ちかけます。イトマンはこの絵を16億円で買い取り、さらにそれを「在日韓国人の大物フィクサー」として知られた許永中(きょ・えいちゅう)氏が60億円で買い上げたのです。
なぜ、そんな法外な値段で絵を買ってくれたのでしょうか。
心理学に「フット・イン・ザ・ドア」という言葉があります。訪問販売などで、最初に小さな頼み事を聞いてもらい、開いたドアに足を挟んで閉められなくしてから、徐々に要求を大きくしていく手法のことです。
まさにこれと同じことが起きました。磯田会長の娘と愛人関係にあったとも週刊誌で報じられた「地上げ屋」の伊藤寿永光(いとう・すえみつ)氏や、彼に山口組の若頭を紹介された許永中氏らは、住友銀行のトップの娘に「恩」を売ることでドアに足を挟み込んだのです。この一件を足がかりにイトマンの中枢へと入り込んだ彼らは、やがて数百億円規模の絵画取引やゴルフ場開発へとイトマンを引きずり込んでいきました。磯田会長は言わば、娘を人質に取られたような状態だったのかもしれません。
「ババ抜き」の果てに消えた3000億円
イトマンを食い物にしたのは、絵画取引だけではありません。当時の兜町(証券街)では、三洋興産やコスモポリタン、光進(小谷光浩代表)といった「仕手集団(特定の株を大量に買い占めて人為的に株価を吊り上げ、高値で売り抜けて巨利を得るグループ)」が我が物顔で暗躍していました。
中身のないボロ会社の株に様々な思惑をくっつけて価格を吊り上げる「仕手株」は、音楽が止まった瞬間に誰かが無価値な株を抱え込む「ババ抜き」のようなものです。そして、その強烈なババを引いてしまったのが伊藤寿永光氏でした。
彼が抱え込んだのは「雅叙園観光」という会社の株です。東京・目黒の「目黒雅叙園」の隣にあったホテルですが、土地などの資産はすべて創業家側の目黒雅叙園が所有しており、上場していた雅叙園観光には資産価値などほとんどありませんでした。元山口組構成員の池田保次氏が率いる仕手集団「コスモポリタン」に約200億円を貸し付けるなどして、この雅叙園観光株を巡る取引で二進も三進もいかなくなった伊藤氏は、なんとそのババをイトマンに押し付けたのです。
伊藤氏は河村社長に対し「ここには1500億円の価値がある」と吹き込み、最終的にイトマンに1000億円を超える規模で雅叙園観光の株などを引き取らせました。
さらに、許永中氏がのちに逮捕された「石橋産業手形詐欺事件」では、元東京・大阪地検特捜部の敏腕検事だった田中森一弁護士までもが共謀して逮捕されるなど、法曹界や政財界のモラルは完全に崩壊していました。また、イトマンファイナンスが戦前の川崎財閥の資産管理会社「川崎定徳」の雇われ社長に過ぎなかったフィクサー・佐藤茂氏に融資を行い、問題となっていた「平和相互銀行」の買収資金を動かすなど、あらゆる闇のマネーがイトマンを経由して流れていったのです。
こうして乱発された手形や不正融資によって、最終的に約3000億円もの資金が闇へと消えました。
しかし、ここでひとつの大きな疑問が浮かびます。これほど巨大な資金が動いていたにもかかわらず、親密だったはずの住友銀行はどうなったのでしょうか。
驚くべきことに、住友銀行本体は誰ひとりとして刑事責任を問われず、あろうことか「被害者」という立場に収まったのです。そのままいけば住友銀行自体が致命傷を負っていたはずの不良債権や闇社会とのトラブルを、すべてイトマンという「別働隊」に押し付けて切り捨てた——それがこの事件の最終的な構図ではないかと井川氏は指摘します。
住友グループには「浮利を追わず(目先の怪しい利益に飛びつかない)」という有名な家訓があります。しかし、「愛が大事だ」と口にする人間ほど実は愛に飢えているのと同じように、誰よりも目先の利益を貪欲に追い求め、同業他社に出し抜かれた時の言い訳としてその家訓を使っていただけではないか、という言葉には妙な説得力があります。
ホールケーキの「ホイップクリーム」を舐めた男たち
今振り返れば恐ろしい事件ですが、当時は表の経済と裏社会の境界線が驚くほど曖昧でした。実際、佐藤氏や井川氏の身近にも、事件の登場人物たちの息遣いがすぐそこまで迫っていたといいます。
佐藤氏が新卒で出版社『経済界』に入社した当時、創業者の佐藤正忠氏はイトマンから2億円を受け取って提灯記事(企業を褒め称える記事)を書いていました。すでに河村氏や許永中氏、伊藤氏が逮捕された後でしたが、大阪地検特捜部から呼び出しを受け、編集長が毎週のように大阪へ通っていたそうです。結局、正忠氏は「これは正当な経済行為だ、何が悪い」と開き直り、調書を取られることもなくお咎めなしで終わったといいますから、マスコミ工作のスケールも桁違いです。
一方、井川氏が当時住んでいた東京・永田町の高級マンション「パレロワイヤル」は、政治家の亀井静香氏が事務所を構え、裏社会の人間も頻繁に出入りする場所でした。その隣にあった建て替え前の赤坂東急ホテル(現・赤坂エクセルホテル東急)は、東急の2代目・五島昇氏が山口組3代目の葬儀に参列するような時代背景もあり、実質的にヤクザの事務所がわりになっていました。井川氏が週末の昼間に併設の古いサウナへ行くと、周囲は背中一面に刺青を入れた男たちばかりで、「お兄さん、俺の刺青に泡がついちゃったよ」と声をかけられるような環境だったそうです。そのサウナで井川氏は、体格が良く異様な迫力を放つ許永中氏を実際に目撃しています。
さらに井川氏は、許永中氏の弟分であり、関西の大物フィクサー・野村周二氏の姓を名乗っていた野村裕作氏とも銀座などでたびたび顔を合わせていました。当時の野村氏は、なんと放送局であるKBS京都の常務に収まっていたのです。反社会的勢力に近い人物がマスコミを買収して役員になるなど、今では到底考えられません。
ある時、銀座で開かれた野村氏の誕生日パーティーで、若く怖いもの知らずだった井川氏は単刀直入にこう尋ねました。
「イトマン事件でお兄さん(許永中氏)が数千億円を動かしたと言われていますが、裕作さんはそこからどのくらい手にしたんですか?」
すると野村氏は、目の前に置かれたバースデーケーキを指差して、ニヤリと笑いながらこう答えたそうです。
「これがホールケーキ全体だとすると、わしはちょっとホイップクリームを舐めたぐらいかな」
3000億円のホールケーキの「ホイップクリーム」です。ひと舐めでも数億円、あるいは数十億円に達していたとしても不思議ではありません。
その野村氏を巡っては、こんな逸話もあります。彼が西武百貨店へ買い物に行くと、受付の女性がすぐに連絡し、店長が飛んできて付きっきりで案内したそうです。「あれとこれを買っておくから請求書を回しておいてくれ」と伝えても、請求書が来た試しがなかったといいます。一介の支店長の一存でできるはずもなく、セゾングループのトップである堤清二氏が裏で了解していたからこその対応でした。
しかし、その堤氏から野村氏は手酷い裏切りを受けることになります。堤氏が「京都銀行を買収したい」と言い出し、元共産党員で政界のフィクサーだった福本邦雄氏を介して野村氏に話が持ち込まれました。野村氏は関西のフィクサーを動かして株をまとめ上げ、堤氏の希望通りに540億円もの現金を用意したのですが、いざ買収という直前になって、堤氏が野村氏の出自や裏社会との関わりを嫌ってドタキャンしたのです。顔を潰された野村氏は、自ら借金をしてすべての株を引き受ける羽目になり、本人の言葉によれば「毎月の金利だけで9億円」を支払うことになったといいます。
こうした狂気じみた話は、他にもゴロゴロと転がっています。
独立系で唯一高炉を持っていた製鉄会社「中山製鋼所」の株が仕手戦の標的になった際、同社の3代目が「高騰した自社株を一度売って、下がったところで買い戻せば大儲けできる」と考えたところ、株を買い占めていた側の黒幕である日本船舶振興会(現・日本財団)の笹川良一氏から食事に呼ばれ、「中山さん、命は惜しいでしょう。まさか株は売りませんよね」と凄まれた話。
富士フイルムの専務が自宅で日本刀で刺殺され、今なお未解決のままとなっている事件。
雅叙園観光株を巡って暗躍したコスモポリタンの池田氏が、ブラックマンデーによる株価暴落で資金繰りに窮し、「東京へ行く」と言って新大阪駅から新幹線に乗ったきり、現在に至るまで行方不明(失踪)になっている話。
大阪の料亭の女将(尾上縫)が、日本興業銀行などから最終的に約3兆円(焦げ付きだけでも1兆2000億円〜2兆7000億円規模)もの天文学的な融資を引き出していた事件。
どこを切り取っても、フィクションを遥かに超えた現実がそこにはありました。
歴史は再び繰り返されるのか
バブルとは、一体何だったのでしょうか。
17世紀のオランダで起きた世界初のバブル「チューリップ・バブル」では、球根1個に現在の価値で1億円もの値段がつきました。それでもチューリップなら、バブルが弾けた後に土に植えて花を咲かせることができます。しかし、コンピューター上の記号に過ぎない現代の暗号資産や、実態以上に吊り上げられた株価が弾けた時、手元には何が残るのでしょうか。当時のバブルピーク時(3万8915円)を超え、一部の銘柄(ファーストリテイリング、ソフトバンク、アドバンテストなど)だけで指数を押し上げている現在の日経平均株価を見ていると、当時の狂乱と重なって背筋が寒くなると井川氏は語ります。
「バブルを実際に体験した人間が生きている間は、まだブレーキが効く。しかし、自分たちの世代が死に絶えれば、また次の巨大なバブルがやってくる」
かつて中国の経済が急成長していた頃、「中国は日本のバブルの歴史と失敗を徹底的に研究しているから大丈夫だ」と多くの専門家が口を揃えていました。ところが結果はどうでしょう。今の中国は、日本以上に巨大な不動産バブルを崩壊させ、身動きが取れない状態に陥っています。
どれだけ歴史を学んだつもりでも、目の前に大金が転がり込めば、人間は同じ過ちを繰り返してしまう生き物なのかもしれません。イトマン事件という巨大な闇の記録は、単なる過去の昔話ではなく、今の私たちに向けられた強烈な警告のようにも思えてならないのです。