テニスで完敗し、頭がまるで回っていない状態から始まった二人の対話。
一見すると取り留めのない雑談のようでありながら、話が進むにつれて「表現者のエゴ」や「資本主義のサイクルへの違和感」、そして「インフルエンサービジネスの欺瞞」へと深く切り込んでいく、生々しいドキュメンタリーのような熱を帯びていきます。
二人の思考の摩擦と対話を、その熱量を損なわずに紐解いていきます。
「死に場所」としてのアトリエと、土着しない生き方
リスナーからの「残りの人生で絶対に達成したいこと」という問いに対して、りょうさんが挙げたのは「最高に気持ちよく、ここで死にたいと思える満足のいく空間(アトリエ)を作ること」でした。
自身の手がけるジュエリー店「ファビラスサウンズ」は、訪れる客が快適に買い物できる機能性を最優先する、いわばクライアントワーク的な場です。そこに私的なエゴは持ち込めません。だからこそ、損得や制約を抜きにして「自分が本当に好きな空間」を求め、コンクリート打ち放しでテニスの壁打ちすらできるような地下物件を追い求めています。
これに対し、大川さんは「世界一周をしてみたい」と語りつつ、自身の「土着できなさ」について思索を巡らせます。
混沌とした街や特定のカルチャーコミュニティにどっぷり浸かり、そこから強烈なうねり(文化)を生み出す人たちがいる一方で、自分はひとつの場所に根を下ろすことができない。
「コミュニティに属さないと、強烈な思想や表現は作れないのだろうか?」
このフラフラとした浮遊感への自問は、クリエイターなら誰もが一度は覚える、根無し草ゆえの不安そのものかもしれません。
ヒップホップの反骨精神と「持たざる者」の強さ
二人のルーツを辿ると、街のアンダーグラウンドで育まれたストリートカルチャーに行き着きます。
りょうさんが傾倒したのは、単におしゃれなストリートファッションではなく、裏原宿のリアルな混沌や、アメリカ西海岸のギャングカルチャー、そしてレゲエやヒップホップでした。
ヒップホップには、貧困街(ゲットー)から成り上がったラッパーが、手に入れた富をすべて高価なジュエリーや車に変えて誇示する「フレックス」という文化があります。「俺はここまで登りつめた」と誇示するその姿は、地元コミュニティにとっては希望の象徴であり、失うものがない者たちの下克上そのものです。
生半可な正攻法では敵わない、圧倒的なエネルギー。
それは「持たざる者」の反骨精神やギリギリの緊張感からしか生まれないのではないか。恵まれた環境に慣れてしまった日本で、果たしてあれほど鋭利な表現が生まれ得るのかという問いが、二人の間に重く横たわります。
ガジェット業界の闇と、インフルエンサーの欺瞞
対話の火花が最も激しく散ったのは、大川さんが前日に投稿した「テック業界・ガジェットレビューの闇」を告発する動画についての議論でした。
大川さんが突きつけた問題意識は明快です。
* 企業はたいした進化もない新製品を毎年発表し、PRのために製品を無差別にばらまく。
* インフルエンサーは深く使い込みもせず、初見のリアクションだけで提灯記事のようなレビューを量産する。
* 消費者はそのサイクルに踊らされ、情報を鵜呑みにして消費を繰り返す。
資本主義のサイクルが生み出したこの空虚な構造に、大川さんは強い怒りを覚えていました。
しかし、ここでりょうさんが容赦のない刃を向けます。
「お前が言うな、と思って見てたよ」
かつてその企業イベントに招かれ、機材を受け取ってクールに振る舞い、業界の甘い蜜を吸っていたのは大川さん自身ではないか。自分が傷つかないように中道(中庸)に立ち、「自分は他のレビュワーとは違う」と免罪符を求めているだけではないか。
りょうさんの指摘は極めて辛辣です。
「本当に告発する覚悟があるなら、過去に自分がその案件でいくら稼ぎ、どんなモヤモヤを抱えてきたか、身を切ってすべて自己開示するべきだ。安全圏から業界批判をして気持ちよくなっているなら、それはクールでも何でもない」
影響力だけを誇り、中身の技術や表現を持たない「インフルエンサー」への嫌悪。大川さんの才能を認め、期待しているからこそ、中途半端なポジションに逃げ込もうとする姿勢が許せなかったのです。
表現者としての純度を取り戻せるか
痛烈な批判を浴びながらも、大川さんはそれを受け止めます。
生活や制作費を稼ぐためにタイアップを受けること自体は否定しない。けれど、企業の言いなりになる奴隷のようなPRではなく、表現者として胸を張れる仕事だけを選び、そこで得た資金を次のクレイジーな挑戦に注ぎ込む。それこそが、自分が目指すべき「次世代の作り手」の姿だと語ります。
二人の議論の根底には、共通して胸を打たれたジャズ漫画『BLUE GIANT』の主人公・宮本大の存在がありました。
世界一のジャズプレーヤーになることだけを見つめ、一切の妥協なく音を鳴らし続ける圧倒的な純度の高さ。
「昔の自分があれだった。そして今の自分に、決定的に欠けているものだ」
大川さんの言葉には、単なる映画の感想を超えた、なりたかった自分になれていない悔しさが滲んでいました。
大人の事情や経済活動の波に揉まれるうちに、私たちはいつの間にか「賢い立ち回り」や「痛みを伴わない正論」を身につけてしまいます。けれど、他人の目や生活のために丸くなった自分を、心の奥底では誰よりも自分が許せていないのではないでしょうか。
あなたには、かつての自分が持っていた「狂気じみた純粋さ」を突きつけられ、思わず言葉を失ってしまうような瞬間はありませんか?