今日、スマートフォンの画面をスクロールしていて、誰かの不倫や失言のニュースに目を留めませんでしたか?
「またあいつか」「信じられない」と、つい眉をひそめたり、SNSの辛辣なコメントに頷いてしまったりする。私たちは日々、有名人のスキャンダルという小さな炎に群がり、怒り、熱狂しています。
でも、少しだけ立ち止まって考えてみてください。
その「誰かの過ち」は、あなたの人生に一体どれほどの影響があるのでしょうか。
その一方で、地球の反対側では想像を絶する悲劇が進行しています。ロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ガザ地区の惨状はもちろん、メディアにすら滅多に取り上げられないスーダン内戦では、2023年以降だけで15万人以上が命を落とし、1400万人を超える人々が住処を追われました。コンゴ民主共和国では鉱物資源を巡る紛争が何十年も続き、これまでに600万人以上が犠牲になっています。飢餓、感染症、そして子どもたちの兵士化。まさにジェノサイド(集団虐殺)と呼ぶべき地獄です。
桁違いの暴力と悲鳴が、現実に世界を満たしている。
それなのに、なぜ私たちの心は遠くの何万人もの死には動かず、芸能人のLINEの流出や不倫騒動ばかりに激しく反応してしまうのでしょうか。
なぜ遠くの悲劇には鈍感になるのか
冷酷に聞こえるかもしれませんが、これには心理学的な理由があります。キーワードは「心理的距離」と「共感崩壊」です。
人間は、時間的・空間的、あるいは文化的に遠い出来事に対して強い関心を持ちにくい生き物です。地球の裏側の出来事は、個人の道徳観や日常の感覚で処理するにはあまりにも巨大で、複雑すぎます。
さらに、人間には「被害者の数が増えるほど共感が薄れる」という奇妙な心の癖があります。これが共感崩壊(Compassion Fade)と呼ばれる現象です。
たとえば、飢えに苦しむ「たった一人の少女」の写真を見せられると、私たちは胸を締め付けられ、寄付をしたくなります。しかし、犠牲者が「数十万人」という数字になった途端、心はそれをただの無機質な「統計データ」として処理してしまうのです。
悲劇が巨大すぎると、心は麻痺してしまう。それが私たちの限界なのかもしれません。
身近なゴシップという「手頃なエンタメ」
対照的に、有名人のスキャンダルはとても分かりやすい構造をしています。
顔も名前も知っている。テレビやスマホで見慣れている。つまり、物語に「手触り」があるのです。
特に不倫やハラスメントは、日常の延長線上にある素朴な道徳で白黒をつけやすいテーマです。「浮気はダメだ」「威張るのはよくない」という誰もが持っている定規で、簡単にジャッジを下すことができます。
居酒屋で同僚と「あの上司、マジで最悪だよな」と管を巻く夜を思い出してみてください。内輪の悪口ほど盛り上がるものはありません。ネットの炎上も、あれと同じです。
「こいつは許せない」と正義の声を上げれば、見知らぬ誰かから「いいね」が返ってくる。手軽に「正しい側の人間」になれる快感。いわばオンラインの道徳パフォーマンスです。
けれど、池に落ちた人を上から棒で叩いたところで、自分の人生が良くなるわけではありません。
他人の失敗をいくら裁いても、明日の朝になれば、相変わらず冴えない現実と向き合わなければならない自分がそこにいるだけです。不快なものを見たからといって、それを「社会から排除すべき絶対悪」と混同してはいないでしょうか。
不倫した「おっさん」と「美女」の決定的な違い
ゴシップをめぐる世間の反応には、もうひとつ不可解な謎があります。
それは、「誰が許され、誰が社会的に抹殺されるのか」という基準のデタラメさです。
たとえば、過去に不倫報道があった男性政治家たちを見てみましょう。彼らはどうなったでしょうか? 何食わぬ顔で要職に就き、税金から給料をもらい、堂々と日本の未来を語り続けています。
一方で、不倫が報じられた女性タレントたちはどうでしょう。CMを降板させられるだけでなく、バラエティ番組からもドラマからも、まるで最初から存在しなかったかのように姿を消してしまいます。
この露骨な差はどこから来るのでしょうか。
実はこの構図、前近代から続く根深い価値観の残滓(ざんし)と言えます。
歴史を遡れば、紀元前18世紀のハンムラビ法典や古代ギリシャ、そして古代ローマ法における「アドゥルテリウム(姦通罪)」に至るまで、男性の浮気には寛容でありながら、女性の不倫には極刑や追放といった苛烈な罰が科されてきました。自らの血統の純粋性を守り、家父長制を維持するために、女性の貞操だけを異常なまでに縛り付けてきた歴史があるのです。
もちろん現代の法律にそんな差別はありません。
しかし、メディアやスポンサーの「なんとなくの空気」や「過去の前例」という名のもとで、その古い呪いはいまだに生き続けています。法律の条文ではなく、ふわふわした世間の気分によって人の社会的な命が絶たれる。それこそが、現代の不気味さではないでしょうか。
安全地帯から石を投げる卑怯さ
もうひとつ、どうしても拭えない違和感があります。それは「叩く側の安全性」です。
週刊誌の記者や、ネットで告発を繰り返すインフルエンサーたち。彼らは自分の顔も名前も隠したまま、安全地帯から石を投げます。
しかし、標的にされた側はどうでしょう。顔も、名前も、家族の生活も、すべて白日のもとに晒されます。
もし誰かを完膚なきまでに叩き潰そうというのなら、暴く側も同じ土俵に立つべきではないでしょうか。自らの姿を晒し、同じように批判を浴びる覚悟を持って初めて、それはフェアな戦いと言えるはずです。
匿名という防弾ガラスの向こうから他人の人生をおもちゃにする行為は、どう取り繕っても卑怯としか言いようがありません。
他人の不幸ではなく、自らの「堕落」を見つめる
他人の転落を指差して笑い、安全な場所から石を投げる。そんな生き方は、あまりにも寂しいものです。
無頼派の作家・坂口安吾は、戦後の名著『堕落論』の中でこう記しました。
> 「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。(中略)人は生き、人間を救う便利なわざはない。(中略)人間だから落ちるのであり、生きているから落ちるだけだ。(中略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われなければならない。」>
人間は誰しも弱く、不完全で、過ちを犯します。聖人君子のように振る舞っている人だって、いつ足を踏み外すかわかりません。
だからこそ問われているのは、「他人がどれほど堕落したか」を監視することではなく、「自分自身の弱さや汚さ」を直視できるかどうかです。
他人に向けて振り上げたその石を、そっと下ろしてみませんか。
他人のスキャンダルを消費して暇を潰すのをやめ、遠くの世界の痛みに少しだけ想像力を巡らせてみる。そして、自分自身の足元にある不完全な人生と、静かに向き合ってみる。
私たちが本当に救われる道は、きっとその先にあるはずです。