13年という歳月は、一人の人間が大人になるには十分すぎる時間です。
『魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』の公開を受け、鹿目まどか役の悠木碧さんと、暁美ほむら役の斎藤千和さんが語り合ったインタビュー。そこで明かされたのは、役と13年間向き合い続けてきた二人だからこそ辿り着けた、残酷で、あまりにも愛おしいキャラクターたちの真実でした。
物語の輪郭は、制作の現場でもギリギリまで揺れ動いていたようです。最初に脚本を読んだ際、斎藤さんは思わず「結果として、どうしたいんだろう?」と結末の意図を測りかねたといいます。それが決定稿の台本になった瞬間、一気に「まどか☆マギカ」としての凄まじい純度を獲得していきました。
文章だけでは想像もつかない展開も数多くありました。特急列車が疾走し、世界がバラバラに砕け散るようなシーン――ト書き(台本上の状況説明)の文字面だけを追っても「これは一体何が起きているの?」と当惑するばかりだった描写が、映像になった途端、圧倒的な説得力をもって迫ってくる。まさにアニメーションの魔法です。
そして何より衝撃的だったのは、これまで天災のような概念として描かれていた「ワルプルギスの夜」の正体でした。
あれは、災害ではなく「人間」そのものだった。
飢餓や死が日常のすぐ隣にあった古い時代、身を守るため、あるいは誰かを救うために祈りを捧げたシスターたちの姿。命がけで助けようとした子どもたちが次々と飢えに倒れ、逃れられない苦痛の中で、少女たちは過酷な力に頼らざるを得なくなっていきます。私たちが暮らす現代の背後には、名前も残らない無数の少女たちの重い犠牲が、途方もない地層のように積み重なっていたのです。
では、そんな重すぎる運命の渦中で、まどかとほむらは何を抱えていたのでしょうか。
ここで鍵になるのが、「約束」という言葉の質感です。
大人になれば、人は過ちをリカバリーする術を覚えます。仕事上のミスなら謝罪して契約内容を見直せばいいし、人間関係のいざこざだって、少し距離を置けば致命傷にはなりません。しかし、14歳の少女にとってはどうでしょうか?
彼女たちにとって、たったひとつの行き違いは「世界の終わり」そのものです。大人が交わすビジネスライクな契約ではなく、指切りげんまんで結んだ約束こそが、生きる世界のすべてになってしまう。
ほむらはまさに、その呪縛の中に生きています。
彼女が求めているのは、まどかとの共依存です。「あなたと私、二人きりじゃなきゃダメになろうよ」という閉じた世界。
けれど、ほむらはどこまでも不器用で、純粋すぎました。世界を意のままに書き換える悪魔の力を持ちながら、彼女は自分だけの理想郷を完成させることができません。大好きなまどかを喜ばせたい一心で、まどかの隣に親友のさやかを配置してしまう。
例えるなら、心底愛らしい猫を一匹迎えたはずなのに、「自分とだけ遊んでいても寂しいかもしれない」と別のおやつを買い、もう一匹の猫を連れてきて、気づけば自分が思い描いていた部屋ではなくなってしまう飼い主のようです。
ほむらは、まどかの幸せな環境を作れば作るほど、自分自身が異物――すなわち「悪魔」である事実を突きつけられ、そっと後ろから見つめることしかできなくなっていきます。話せば解決するかもしれないのに、それができない。痛いほどに切ない、思春期のもどかしさです。
対するまどかは、驚くほど精神的に成熟しています。
「あなたはあなた、私は私でいいじゃない」。
どれほど裏切られても、記憶を失われても、たとえ嫌われたとしても、相手の存在そのものを愛し続ける。この果てしない博愛と包容力は、もはや普通の人間が共感できる領域を軽々と超えてしまっています。
救われません。
ほむらが救いたいのは、宇宙の概念に昇華してしまった崇高な神ではなく、かつて弱くて泣き虫だった「最初のまどか個人」なのですから。二人の願いはシーソーのようで、どちらかの望みが叶えば、もう片方の願いは必ず宙に浮いてしまいます。
インタビューの中で、キャストの二人が「いっそのこと、生担当と死担当に分かれて、二人で神様になって世界を運営できたらいいのに」と笑い合う場面がありました。長年二人を演じ、その痛みを誰よりも知る声優陣だからこそ漏れ出た、ユーモラスで、どこまでも温かい祈りのような言葉です。
13年間という途方もない歳月を経て届けられた本作。それは、初期のテレビシリーズから受け継がれた神話のような骨太さに、令和の最高峰の技術と表現力が注ぎ込まれた結晶です。巨大なスクリーンと全身を震わせる音響の中で、彼女たちが選んだ過酷で美しい「約束の行方」を、ぜひ余すところなく浴びてみてください。