【フィリピン】「麦わらの一味」のボスである“ルフィ”


小学校の低学年のとき、両親が離婚した。離婚の理由はわからない。それから俺は母子家庭で、母親と2人で生活していた。でも、俺みたいな犯罪者にありがちな、虐待されたりした経験はない。離婚していても、両親はともに愛をもって接してくれていたと思う。

 小中学校の思い出といえば、サッカーの記憶しかないぐらいサッカー漬けの毎日だった。でも高校2年のとき、怪我をしてしまい、サッカーを断念してしまった。それで、高校も辞めてしまった。

 18歳になる前、俺は田舎を出て「ブラック」に近いグレーなことばかりをしていた。まわりにいる人間も、そんなやつばかりのつき合いになった。詐欺グループに加担したのも、ある意味、自然の成り行きだったのかもしれない。5年間、続けていたシノギが下火になってしまい、ブラックビジネス専門のブローカーの知人から紹介を受け、このフィリピンの仕事の道に入った。

 俺が所属したのは、「麦わらの一味(後に、幹部が漫画『ONE PIECE』の主人公「ルフィ」を名乗っていたことが判明)」といわれる集団だ。ここに入るのに王道なのは、リクルーターと呼ばれる、おもにフィリピンにいる勧誘者がSNSで募集をかけ、そこに応募すること。ひどい場合だと、リゾートバイトといううたい文句に誘われて、いざフィリピンに来てみたら、詐欺の掛け子の仕事だったということがある。その場で辞めますと言っても「実家の住所を押さえてある」などと脅されて、パスポートも取り上げられ、無理やりやらされている人もけっこういた。

 ほかには、もともと日本で受け子をしていて、絶対に逮捕されないと言われていたにもかかわらず、「いつ逮捕されてもおかしくない状況だから、海外に逃げるしかない。海外なら日本の警察の捜査権が及ばないから、逮捕されることはない」などと言われ、フィリピンに行くケースも多い。どういう理由かわからないが、日本からフィリピンに行くことを“上がってくる”という言い方をしていた。

 フィリピンに行く前は、1年で1億円貯めて、帰国したらブラックから足を洗おうと思っていた。そんな思いを抱き、フィリピンに“上がった”。俺の紹介者はフィリピンにいない人間だったので、フィリピンにいる適当なリクルーターが俺の紹介者ということになり、空港まで迎えに来た。フィリピンに上がってきた掛け子は、ひとりにつきひとり、紹介者がつく。現地の立ち回り先などを教えてくれる世話役だ。この掛け子の成績の5%が紹介者に入る仕組みなので、世話役はわりと親身に接してくれる。

 俺についた紹介者は「クボ」。空港まで来て「初めまして、クボです。よろしくお願いします」とあいさつをかわした。見た目はぜんぜん反社系に見えず、どちらかというと好青年だ。歳も20代半ばぐらいか。「お疲れさまです。腹、減ってないですか? 飯、食いに行きましょう」。そう言うと、マニラ空港からタクシーで20分くらい移動して、レストランに連れて行かれた。

 マニラのマカティ地区にある、ジャパニーズレストラン「秀吉」に入る。カウンター10席、テーブル6卓ぐらいの大きさの店だ。「サーモンの刺身とか、うまいっすよ」。そうクボに言われ、サーモン刺し、揚げ出し豆腐などを頼んだ。「フィリピンの刺身とか、大丈夫か?」と思いつつ、食ってみたらぜんぜんいける! 飯を食い終わり「飲みに行きますか」と誘われ、マニラのマラテ地区に移動し、KTVへ。KTVとは、日本でいうキャバクラみたいなところだ。俺はキャバクラや風俗にはまったく興味がないが、成り行きで行くことになった。

「イラッシャイマセー」。テーブルに案内されるが、クボは常連らしく、指名した女が席に着いた。「ハジメマシテ、ユキデス。オニイサンハドンナコガスキデスカ?」。そう聞かれると、クボは「いいよ、ショーアップして」と言う。ショーアップってなんだと思っていたら、俺の席のまわりに20人ぐらいのお嬢が集まってきた。どういうことかと思ったら、このなかから選べということらしい。なるほどそういう仕組みなんだね。ブスからべっぴんまで、十人十色。マジでどうでもよかったので、クボに「ユキちゃんの友達とかいたら、その子でいいですよ~」と言うと、クボが指名した女のコのいとこだという、サクラというフィリピン人が俺の席に加わった。片言の日本語は30%ぐらい伝わる。あとは、英語やボディーランゲージで補って、どうにか会話は成り立った。

 フィリピンでは義務教育を終えていれば、英語は話せるはず。タガログ語に続き英語は第2公用語といってもいい。とはいえ、彼女は英語はほぼ話せないし、日本語も伝わらない。コミュニケーションなど取れないまま解散になった。外国に来たんだなあとあらためて感じた。

 空港を出たときには感じなかったが、タクシーでマカティに降りた瞬間、生ごみのような臭いが町中からした。暖かい風に乗り、腐敗臭が鼻につく。日本ではまず味わえない独特の空気だ。これらのカルチャーショックな出来事は、今後、起こるさまざまな出来事に比べれば屁でもない。自分がいかに井の中の蛙だということを思い知ることになる。ともあれ、この日はこれで切り上げ、近くの「ポップイン」というフィリピンのチェーンのビジネスホテルで宿を取ってもらう。クボは、歯磨きはコンビニで水を買い、それを使うよう勧めてきた。フィリピンの水道水は塩素を強く含み、初心者は体内に入ると腹を壊すらしい。

移動の疲れもあり、チェックイン後、シャワーを浴びてすぐに寝た。フィリピンと日本の時差は1時間しかないので、時差ボケにはならなかったが、あまり眠れなかった。

 翌朝、起きたらクボからテレグラムでメッセージが入っていた。同じホテルに、俺と同期にあたる掛け子がいるということで、連絡先を教えてもらい、コンタクトを取った。「初めまして、モリです。クボさんから連絡先を聞きました。ハヤシさんですよね。暇なんで、よかったらホテルの喫煙所で話しませんか?」。喫煙所に行ったら、ハヤシらしき日本人が待っていた。そこで、お互いのこれまでの経緯を軽く話し合った。ハヤシは20代半ばぐらいの好青年。半グレとは縁がなさそうなやつだ。金に困り、ツイッターで「運び」の案件に応募したが、保証金15万円だけ取られ、バックレられたという。保証金詐欺だ。詐欺に遭い、途方に暮れていたところ、SNSの応募を経て「麦わらの一味」に加わった。

 ちなみに「運び」とは、薬物やチャカ(拳銃)、ときには人を、依頼された場所へ文字どおり運ぶ仕事だ。しかしこの運びの仕事は、SNSで募集されている案件は、ほとんどが保証金詐欺だ。そもそも、初めて応募してきた人間に、そんな仕事を与えるはずもない。信用第一なのだ。

 お互い、日用品などほとんど持って来ずにフィリピンに来ていたので、散歩がてら、近くのショッピングモールへ買い物に行った。フィリピンはショッピングモールだらけだ。

俺が泊まっていたホテルの5km圏内に、少なくとも10カ所のモールがあった。ホテルから歩いて5分ぐらいのところに、「ロビンソン」というフィリピンで大手のショッピングモールがある。そこへ行くまで、たかだか200~300mの間に、5人ぐらいの子どもに金を求められた。10歳以下の子どもだ。前日、クボに「子どもが来ても金を渡すな」と言われていた。彼らにはネットワークがあり、お互い助け合いながら生きている。一度、金を渡すと情報が行き渡り、次から次に子どもが来て、最後はひったくりに遭ったりするらしい。でも、そのときはそんな危機感はない。5歳ぐらいの少女が、紙で作った花を10ペソで売っていたので、ひとつ買ってあげた。100ペソをあげて、お釣りはもらわなかった。すると、次から次に子どもたちが群がってくる。「マネープリーズ、マネープリーズ」といって、まるでゾンビのように湧いてくる。恐ろしいカルチャーショックを受けた。

 モール内にあるカレーハウス「CoCo壱番屋」でカレーを食べると、安心した。これから始まるフィリピンでの生活はどうなるのか。想像もつかない大きな渦に巻き込まれていくことになる。

 ホテルに戻り、すぐにクボからメッセージが来た。「モリさんとハヤシさんは今からCODに向かってください」。CODとは、シティー・オブ・ドリームスという、マニラのパサイ地区にある高級カジノホテルだ。GLUB(グラブ)というフィリピンのアプリを使い、タクシーを呼んだ。GLUBは、アプリ内で出発地と目的地を設定し、金額も乗車する前にわかる。グラブと提携しているドライバーはぼったくることができないし、下車後に客が5段階評価をするので、適当な接客もできない仕組みになっている。「麦わらの一味」は、全員と言っていいほどこのアプリを利用していた。

 ホテルを出て20分ほどで到着し、クボへ連絡したら、数分後に全身タトゥーの男が迎えに来た。「モリさんとハヤシさんですか?」。ホテルの入り口でボディーチェックを終え、1泊10万ペソはするというスイートルームに案内された。そこにはボスがいるという。中に入ると、『闇金ウシジマくん』風の男が待っていた。彼こそ「麦わらの一味」のボスである“ルフィ”である。ルフィの上に金主がいるという憶測が、後に報道で流れていたが、そんな奴は少なくともフィリピンにはいなかった。ルフィこそが、この組織の頂点であることは間違いなさそうだ。

 ルフィは軽く自己紹介を始めた。もともとは大学に通いながらレストランを経営していたという。イミグレーションを押さえているから、捕まることはないともいう。とにかく、トラブルに巻き込まれないようにすること。がんばれば、1カ月に何千万円も稼げるという。さらに、フィリピンでの立ち振る舞いの仕方も教えてくれた。我々のモチベーションを上げようとして、彼は話し出すと止まらないぐらいだ。このボスは、現地では「ハオ」と呼ばれているようだ。「明日までにこれを覚えておくように」。ルフィはそう言うと、我々にプリントアウトしたものと、録音されたデータを渡した。

 同期のハヤシとホテルに戻った。腹がすいたので、近くの「信長」という日本食レストランで食事をした。そのあと、ハヤシがKTVに行きたいというので向かった。ハヤシは地方の出身者で、夜の街はほとんど知らないという。一度KTVに行き、すっかり気に入ったようだ。2時間ほど飲んでホテルに戻った。電話のかけ方が書かれたマニュアルをしっかり頭に入れてこい、と言われたものの、そんな気にはなれない。部屋に戻るとすぐに寝てしまった。

 翌朝、クボに指定された場所にタクシーで向かった。どうやら学校のような建物だ。なかにはネズミやゴキブリが走り回っている。部屋の中からは日本語の会話が聞こえてきた。クボが言う。「モリさんとハヤシさんは、今日からここで仕事をしてもらいます」。部屋の奥から全身タトゥーの若い男が現れ、説明を受けた。「管理のヒライです。よろしくお願いします。今日は雰囲気や、全体の流れをつかんでもらう感じでいいです」。縦10m、横5mほどの部屋には机が並び、パソコンが置かれている。そこに、電話番号が書かれた名簿やマニュアルが置いてある。ここがコールセンターなのだとわかった。

 アポ電を担当する掛け子はすでに12、13人ほどがいた。うわぁ、なんか来るところまで来ちまったなあ。そんな感覚に陥った。ヒライがもう一度、マニュアルを確認した。「とりあえず、ハヤシとモリはこのマニュアル通りに電話をしてみて。まずハヤシから。はい、次、モリ」。とりあえずマニュアルを読み上げると、こう言った。「まあ問題ないね。あとはひたすら電話をかけまくってくれ。慣れるしかないからね」。電話には上手、下手があるらしいが、根性論だ。とにかくかけまくって場数を踏んでくれという。部屋のなかは、ほかの掛け子たちの電話の声がひっきりなしに響いていた。

 ここまで来たら、あとは電話をかけるしかない。あきらめにも似た気持ちになって、電話をかけた。ところがどうだ。いきなり、初日に“成約”を1件取ってしまった。何歳かはわからないが、おばちゃんだ。詳しくは言えないが、200万円近い金額を振り込ませることができた。この日の夜、ホテルでひとりになったとき、恐ろしさに襲われた。成約を取ったおばちゃんが最後に言った、「ご苦労様です。ありがとう」という誠実な言葉が頭から離れないのだ。成約を取ったといううれしさや喜びなんて1mmも感じなかった。

“箱”での業務は、7時40分から16時40分まで。これが平日のスケジュールで、土日は休み。特殊な事情を抱えている奴を除き、連休中の帰国を許されている奴もいた。特殊な事情とは、日本で逮捕状が出ている奴や、だまされてフィリピンに連れてこられ、帰国したらバックレそうな奴らだ。そもそも俺がフィリピンでパクられたのも、掛け子のひとりが、帰国した際に成田空港で逮捕され、そいつが俺らのアジトの場所をチンコロ(密告)したからだった。その人物は2019年11月に逮捕され、その数日後の11月13日に、俺らはフィリピンの入管に拘束された。フィリピンでパクられるなど思ってもみなかったことだった。

 ちなみに、フィリピンには「セットアップ」というシステムがあって、現地の警察とマフィア、ギャングが手を組み、アジトに警察が踏み込むと見せかけ、金を脅し取ってくる。フィリピンの警察の汚職っぷりは、日本では考えられない。驚くほど賄賂が横行しているのだ。我々も事前に、警察には賄賂を払うよう言われていて、払っていた。警察だけではない。判決だって金次第で変えられるし、刑務所や入管のなかでも、金さえ払えばなんでも手に入る。まさにカルチャーショックだ。いままでの固定観念など吹っ飛んだ。何が正しいのかさえ分からなくなってきた。

36人しか乗れなかったらしい。もともと逮捕状が出ているやつ、パスポートを提示できなかったやつなどが選ばれたらしい。女や結婚しているやつは省かれた。イミグレーションの本部までバスで行き、オレンジのTシャツを着せられ、写真を撮られた。すでに日本のマスコミも来ていた。

 1時間半ぐらいかけて、入管の収容施設に移送させられる。ビクータンという場所らしい。じつは、娑婆よりもこの収容所の生活のほうが、カルチャーショックは大きかった。外側から中の様子をうかがうと、収容者はほとんどが上半身裸。床に寝ている奴らしか見えない。しばらくして、俺たち36人は中に入れられた。先に入所していた、全身刺青の大柄な日本人が話しかけてきた。「ニュースに出てたぞ。とりあえずタバコでも吸えや」。タバコをくれたその男は別件で捕まった暴力団関係者で、後々36人は彼に振り回されることになる。クソ男だ。こいつは腹にでかいダルマの刺青があったので、陰でダルマと呼ばれていた。

 収容所に入れられたものの、この日は寝る場所すらなかった。俺は幸いにも韓国人の部屋のベッドを使わせてもらった。だが、ほとんどのやつらは、コンクリートの床や階段に座って寝ることになった。