幸楽苑

幸楽苑は1954年、電力会社を定年退職した新井田司氏が福島県会津若松市で食堂を開業したのが始まり。

伝氏が18歳のとき、父の食堂を継ぎ、上京して修行。修行先の1つである「幸楽飯店」から2文字もらい、帰郷後、「幸楽苑」を開業する。

70年11月に株式会社に改組した。

上京して修行。

修行先の1つである「幸楽飯店」から2文字もらい、帰郷後、「幸楽苑」を開業する。

70年11月に株式会社に改組した。

「壁に突き当たって悩んでいたときに出会ったのが、(流通業界のコンサルタントとして知られる)ペガサスクラブの故・渥美俊一先生の本でした」

渥美氏は、日本におけるチェーンストア理論の第一人者で、「チェーンストア業界の父」と呼ばれる。

ペガサスクラブの設立当初のメンバーは、ダイエーの中内功氏、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏、ジャスコの岡田卓也氏など、後に日本の流通革命を切り拓いた錚々たるメンバーだ。

ペガサスクラブ門下生の第2世代では、ニトリホールディングスの似鳥昭雄会長が有名だ。

似鳥氏は渥美氏を「人生の師」と仰いでおり、渥美氏の死後、自宅を買い取って「渥美俊一記念館」にしたことで知られる。

伝氏もペガサスクラブの第2世代だ。

渥美俊一氏のチェーン展開の教えを忠実に実践。

低価格「290円ラーメン」を掲げた「幸楽苑」を郊外に展開し、2003年に外食産業として北海道・東北で初めて東証一部に上場をはたした。

18年社長を息子に譲り、会長に就いた。

21年、会社設立50周年を節目に、完全に引退、相談役に退いていた。

お家の大事に社長に復帰するというのである。

新井田昇社長は伝氏の長男。

97年、慶應義塾大学を卒業後、三菱商事に入社。

修行を経て、2003年幸楽苑HD入社。

海外事業を担当。

18年11月、父の後を継いで社長に就いた。

業績悪化の転換点となったのは19年10月。既存店売上は30.7%減と激減した。

これは台風19号の影響が大きい。

19年10月12日に、日本に上陸した台風19号は、土砂災害や河川の氾濫などを引き起こし、東日本を中心に各地に甚大な被害をもたらした。

「令和元年東日本台風」と命名された。

 幸楽苑HDは福島県郡山市にある工場が冠水被害に遭い、10月13日に操業を停止。

これにより東北を中心に240店が休業に追い込まれた。

これは全店舗のほぼ半数にあたる。

翌11月初旬に郡山工場のフル稼働を実現。被災後1カ月で全店通常営業を再開した。

だが、休業していたことが影響して、客足は戻らなかった。