蝉の声

僕が地球に不時着したのは32年前で、故郷の星に戻ることを諦め今の妻と結婚してから4年になる。

結婚を機にウォーターサーバーの営業の職に就き、契約先のオフィスを巡って重たい水のボトルを運ぶ日々を送っている。

ーー

数年に一度くらいのことなのだけれど、街角で僕以外の宇宙人を見かけることがある。

地球人にはまったく気づかれないと思うが、やはり宇宙人同士だと一目でそれとわかるものだ。

苦笑いを浮かべて会釈を交わすこともあれば、こっちに気づいた瞬間に走って逃げられることもある。

お互いにいろんな事情があってこの星に迷い込み、生きることを決めたのだろう。

ーー

地球人は安全極まりない生き物だけれど、得体の知れない異星人には捕食される危険性がある。

だから宇宙人同士で会話することはないし、会話したとしても必要最小限の二、三言で、以後はできる限り互いが会わないように注意して行動するようになる。

なので今日、最終電車を待つ夜のホームで出会った宇宙人と、数分とはいえ世間話しをしたのは初めてのことだった。

普通ならそんな危険なことは絶対にしないのだけれど、彼の首筋に宇宙刑務所マークの刺青(脳に施されるため、刑期を全うしない限りはどれだけ肉体改造しても神経を伝達して浮かび上がってくる)があり、それで彼が宇宙刑務所からの脱獄囚だと気づいて、思わず自分から話しかけてしまったのだ。

「あの刑務所って、宇宙が誕生してから、たった一人しか脱獄に成功していないんですよね?」と僕は尋ねる。

「ええ……そうらしいですね」と男は遠慮がちに言う。彼は50代後半の男性型地球人が休日を過ごすときのような姿をしていた。

「なにか、生まれつき特殊な能力をお持ちだったんですか? テレポーテーションとか、サイコキネシスとか?」

「いえいえ、そんな凄いことなんて何一つ……というか、実際にそういった能力を持つ宇宙人って、実在するのですか?」

「いや、すいません」僕は頭を搔く。「地球のテレビ番組とかでよくそういう設定の宇宙人を見るので、つい。実際には、聞いたことがないです」

「ははは。そうですよね。私の故郷の星は地球とよく似た環境で、というかほとんど違いがなくて、むしろ地球人に比べてわずかに非力なくらいです。だから自動じゃないドアが重くってね、ははは」

「地球人は宇宙人の中では怪力なほうですもんね」僕は持っていた缶コーヒーを一口飲んで一拍間を空けてから「それで、どうやって脱獄したんですか?」と、一番聞きたかった質問について、できるだけなんでもない風を装い、尋ねる。

「うーん、あれは脱獄したというか、気づいたら脱獄していたというか」と彼は言葉を選ぶようにして言う。「脱獄には地球時間で8週間ほどかかったのですが、意識がなかった時間も多くて。心音を止めないと探知機が作動する通路があって、心停止していた期間とかもあって、記憶が曖昧なんです、無事に蘇生できたからよかったのですが」

「心停止、ですって? かなり、壮絶だったんですね」

「そうですね。一緒に脱獄を企てた幼馴染が蘇生に失敗して、途中で息絶えてね。あとは刑務所長から脱獄計画を中止しないと一緒に収監されている息子を拷問するぞと監内放送で脅されたりして……ブラフとわかっていても、あれはこたえましたね」

「それは……」僕は絶句する。

「宇宙警察では収監されるときに服はおろか、体毛も歯も爪も触手も手術で没収されるでしょう。食事も粉末栄養だから脱獄に使える道具もなくて、とにかく知恵をしぼりましたねぇ」

そこまで聞いて僕は、最終電車が来るまであと数分もないことに思い至る。

彼に聞きたいことは山ほどあった。だが、残り時間でそれを全て聞くことはできそうにない。

「どうして、あなただったんですか?」この機会を逃したらもう2度と会えないのだ。僕は失礼を承知で、思い切って知りたいことを端的に尋ねることにする。

「宇宙刑務所では毎日、何億人という荒くれ者や知能犯の宇宙人たちが、ありとあらゆる方法で脱獄に挑んでは命を落としてるって聞いたことがあります。どうして、あなただけが、脱獄できたんでしょうか?」

「そう……ですね」彼はうつむいて、黙り込んでしまった。僕は気に触るようなことを言ってしまったかと一瞬不安になったが、彼の表情を見るに、僕の投げかけた問いに真剣に答えてくれようとしているみたいだった。僕は辛抱強くその問いの答えを待ち続ける。

待ちながらふと、その問いは彼がずっと自分自身に対して問い続けてきた質問なのではないか、と僕は思う。

「私は、ずっと」と絞り出すように、彼は言った。

「私はずっと幼い頃から、【この世界は私のためにつくられてなんかいないんだ】と、はっきりと認識していました。

 どうやら、家族や友達はみんな、この世界が自分自身にとってなんらかの意味があると自然と感じているんだ、と知って、自分にはそれがとにかく不思議でしょうがなかったんです。

 世界と自分が大なり小なり呼応した存在であるという、周囲の人たちが当たり前に感じる感覚を、私は幼い頃からずっと感じることができなかった。私は、この世界は自分というちっぽけな存在を全く気にしてもいなくて、ただ自分の隣を通り過ぎていくだけの存在でしかないのだ、と、そういうふうにはっきりと感じていました。

 この世界は偶然私と出会っただけで、私のことに気づいてなんていやしない。深い海の底で巨大な鯨と出会っても、鯨は私を気にもとめずに泳ぎ続けていくでしょう。私にとって世界とは、そういうものなんです。

 私は生まれつきこの世界に対して、違和感というか、距離感を感じていました。なんというか、それを私のように感じている人に出会ったことがないんです。近いことを感じていても、私のようにはっきりと確信している人は、いない。もし、私だけに宇宙刑務所を脱獄できた理由があるとするなら、脱獄の手法は全く本質的ではなくて、その距離感こそが――」

彼がそこまで話したところで、僕が乗る最終電車がホームへ入ってきた。

僕は彼の顔を見る。彼はまだ何か話したそうな、もどかしい表情をしていた。

もう少しだけ。もう本当にわずかな時間さえあれば、彼が幼い頃から感じてきた何かを、やっと言葉にできる手助けができるのかもしれない、と僕は思う。

でも僕にはそれを待てるだけの時間がない。明日も仕事があるし、なにより終電を乗り逃したら、家で待つ妻がひどく心配するだろう。

けれど――

『二十億光年の孤独』ですかね。

その時、そんな言葉が、僕の口を衝いて出てきた。

僕と彼はその言葉に、一瞬だけあっけにとられたような顔で見つめ合ったあとで、あはは、と一緒に笑った。

ああ、彼もあの詩を読んだことがあるんだ。と思い、僕は嬉しい気持ちになる。

無言の会釈を交わして僕たちは別れ、それぞれの日常へと帰っていく。

ーー

自宅のマンション前に辿り着くと、部屋の明かりが消えているのが見えた。妻はもう先に眠っているようだった。

僕はエレベーターで八階に上がり、音を立てないように玄関を開け、リビングの明かりを灯す。

リビングテーブルの上に、妻が僕のために作ってくれた夕食と、A4サイズの封筒が置かれていた。

僕は夕食のおかずを電子レンジに入れてから椅子に座り、封筒を手に取る。中には書類が入っているようだった。僕は中の書類を取り出す。

そこには、妻の不妊治療の結果と、夫向けの精子検査のパンフレットが入っていた。僕は詳細については読まず、書類を封筒に戻す。

僕はその封筒をじっと見つめ、それから寝室で寝ている妻のことを思った。

「この世界は私のためなんかにはつくられていない」

と彼は言っていた。僕には彼の話を完全に理解することはできなかった。

彼の言ったことが僕にも当てはまるとしたら、僕と妻はこの世界でどれだけ一緒にいられるのだろうか、と僕は考える。

僕は僕の夕食が温まりきるまでのわずかな時間、目を閉じ、『二十億光年の孤独』の詩を思い出そうとしてみる。

 万有引力とは

 ひき合う孤独の力である

 宇宙はひずんでいる

 それ故みんなはもとめ合う

いつだったか僕は図書館でその詩に出会い、

その時にはっきりと、故郷の星に戻ることを諦めたのだ。

それはたしか夏だった。あの日の蝉の声が僕の中で蘇ってくる。

 

 宇宙はどんどん膨らんでゆく

 それ故みんなは不安である


電子レンジが現実へ帰れと僕を呼んでいる。

二十億光年より深い孤独に、僕は思わず涙をこぼした。