信長の異常行為

 私は「本能寺の変」の半年前、天正一〇年の年明けまで、光秀には謀反を起こす気はなかったと見ている。光秀は、信長からもらった茶器で「初釜」(正月の茶の集い)をしている。つまり、この時まで光秀は信長への敬意を持っていた可能性が高い。

 この「初釜」自体が謀反の意を隠蔽するためだったという「カモフラージュ説」もあるが、私はこれを光秀が信長をこの時点まであがめていた証拠だと思っている。

 その年の3月には、信長が武田勝頼を滅ぼした。長年信長を悩ませてきた武田家が、これで滅亡したことになる。そうなると信長は「俺の敵はいなくなった」と考え、彼の増長がはじまった。

 その象徴的なできごとが、勝頼の首実検であった。

 戦国時代、乱世の事とは言え、首実検においても最低限の死者への敬意は見せるのが当時の常識で、首を拝み、死者にねぎらいの言葉をかけるのが作法だった。

 だが、信長は悪口をいって勝頼の首を蹴飛ばしたと言う。光秀はこの光景をそばで見ており、きっと「常軌を逸した行動だ」と思ったはずである。

 もう1つの出来事は、武田攻めの帰りに起こった。

 信長が「せっかく甲斐まで来たんだから、富士山を見て帰りたい」と言ったとき、従軍していた太政大臣の近衛前久が「お供しましょう」と言った。

 すると信長は、「わごれなんどは木曽路を帰れ」と馬上から暴言を吐いたという。信長の家臣ならまだしも、太政大臣は今でいう総理大臣であり、きわめて位の高い相手である。それに対して、ふつうなら考えられない暴言を信長は吐いた。

 光秀はこの光景をそばで見ており、「これはおかしい」と思ったのではないか。

 そしてもう1つ、信長の息子の信忠が、信長に敵対する武将が甲斐の恵林寺に逃げ込んだため、恵林寺を焼き討ちした。

 当時のお寺はいわゆる「治外法権」であり、お寺は逃げてくる人間をかくまうことができた。

 ただ、織田勢は、武将を山門に追い上げて、僧侶150人ともども焼いてしまったのである。しかも恵林寺のトップは、天皇から「国師号」というお墨付きをもらった高僧だった。

 これ以上信長を増長させると、いずれ朝廷に弓を引きかねない、と光秀は感じ、謀反を決意したのではないか。

 これが私の唱える「信長非道阻止説」である。

 光秀が「本能寺の変」で信長を討った理由とは、このように、信長による悪しき政治に歯止めをかけるための、一種の「世直し」だったと思う。

「本能寺の変」は、下の者が思い切って上の者を倒す「下剋上」の1つの典型だった、と今では広く考えられているであろう。

 今でこそ「下剋上」は、社会の秩序を乱す、倫理にもとる、というイメージがあるかもしれない。だが戦国時代においては、下剋上は実は是認されていた。

 悪しき政治を倒し、世の中を良くできるなら、「下剋上」は必ずしも「悪」とは考えられていなかった。結果が良ければ「謀反人」として非難されることもなかったということである。

 ところが、後の江戸時代になると、儒教的な考え方が一般的になり、「武士は二君(じくん)にまみえず」といった倫理が主流になった。光秀を「主殺しの大悪人」だと考えるのは、江戸時代以降の感覚だと思われる。