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なぜ調剤薬局がフェラーリを買えるほど儲かるのか?

2017年度の国民医療費は43兆円、介護費は12兆円にのぼっています。医療・介護費だけで、日本のGDP550兆円の1割を占めている。経済規模だけで言えば、自動車産業と同等です。

さらに、われわれ団塊世代が後期高齢者になる2025年には、医療・介護費は48兆円、15兆円になると考えられている。

にもかかわらず、医療・介護費は、税や保険、補助金などで賄われているから、市場のチェック機能が働かない。なぜそんなに金がかかっているのかも分かりにくい。そんな不透明な医療・介護業界に、人生100年時代の後半部分をまかせているんです。国民が不安を抱くのもムリはない。

もう忘れられていますが、私たちが先頭に立って、東京オリンピックを招致した理由も、そこなんです。都民だけでなく、国民みんながスポーツに親しんで健康寿命を延ばし、医療費を抑えたい、と。

スポーツに親しめば、健康を維持できるということは、私が身をもって証明しています。実は9年間、毎月必ず50キロ以上走っているんですよ。昨年の大晦日みそかも、ノルマの50キロまで少し足りなくて、夕方に3キロ走ったんだから。ヒマを見つけては走ってスマホに記録するのが日課になっているんです。

知り合いの医者に勧められて60歳から人間ドックを受診しはじめたんだけど、9年前の64歳のときに、血糖値が少し高いと指摘されました。医者に「このまま運動もせず、食って飲んでいると、そのうち(糖尿病になって)失明するぞ」と脅された。

目が見えなくなって原稿が書けなくなっては困るし、いままで通りに食事もしたい。タバコも吸いたい。だったら、運動してみるか、と走りはじめました。

中学時代の運動会以来に走ったけど、実際に続けてみると、糖尿の数値が平常に戻った。そして1年半後、一念発起して東京マラソンに出てみたら完走できました。

タバコを吸っている私でも6時間半で走りきったからね。マラソンには、心臓や肺よりも筋力が重要なのかもしれない。東京マラソンは、約5キロごとにチェックポイントがあるんですよ。制限時間をオーバーすると足きりされ、はとバスに乗せられる。

当時、私は副都知事だったでしょう。みんなが見ている前で、はとバスに収容されるわけにはいかない。もしも棄権したら都の職員に「猪瀬は口ばっかりだ」と陰口をたたかれるのに決まっているんだから、本当に大変でしたよ(笑)。

健康寿命が延びて、70歳、75歳になってもみんなが元気に働ければ、いまほど医療費・介護費もかからなくなるだけでなく、税収も見込める。生きがいをもって元気に働く高齢者が納税者になってくれるかもしれない。そこが、人生100年時代を迎える少子高齢社会で大切なポイントなんです。

1960年の一般的なサラリーマンは55歳で定年でした。そのころの平均寿命は、男性が65歳で、女性が70歳。それから60年が過ぎたいま、平均寿命は男性で81歳に、女性で87歳に延びた。

本来、平均寿命が十数年も長くなっているのだから定年も同じくらい延びないと辻褄つじつまが合わない。だけど、1980年ころから定年は5年延長された60歳のまま。そこで、定年後の二十数年間はどうするのか……という不安が生まれる。

それなら働けばいいと考えて、政権は年金受給開始額を65歳から70歳、75歳へと繰り下げる提案をしている。しかし現実の高齢者の就労状態はどうなっているのか。65歳から69歳の就業率は47%。この数字には、自営業者や町工場など、もともと定年と関係のない人たちも含まれています。

65歳までの定年延長の企業は全体の16%にすぎません。とするなら、健康寿命を延ばす施策を取り入れながら、70歳、あるいは80歳まで仕事ができる労働市場を整えていく必要がある。

昨年3月、内閣府が40歳から60歳の引きこもりが全国で61万人と発表して話題になりました。そのうち、精神的な病気で、通院・入院経験がある人は33%にのぼる。関係機関に相談した経験がある人が44%です。日本の精神医療システムがうまく機能していればこうした事態は避けられていたかもしれない。

欧米と日本の精神病床数の推移を比べると日本の精神医療の問題点がはっきりと分かります。まず主要な欧米諸国の精神病床数は右肩下がりです。反面、日本は1960年代から極端な右肩上がりになっている。人口1000人あたりの精神病床数はダントツで世界1です。

日本の国民医療費43兆円のなかで、最大を占める医科診療費の31兆円のうち1兆4000億円が精神科入院費用になっている。精神病患者1人あたり精神科入院費は年間552万円にのぼります。実は、精神病院からグループホームに移行すると、1人あたりにかかる費用は年間275万円、1年間で、約半額の7000億円で済むんです。

ヨーロッパでは、施設に隔離するのではなく、地域社会のなかに居場所と働ける場を用意する政策が主流です。支援される側から、自立して納税する側への移行を目指すという考え方ですね。

精神科病院側は自嘲的に「薄利多売」と評していますね。通常の一般医療なら月額入院費100万円。ところが精神科では月額45万円と保険点数が低い。ベッド数を多くして稼ぐモデルになっているんです。

突き詰めれば、日本にとって近代とは何か、なんですよ。ヨーロッパの近代は、アルコール中毒患者や精神障害者を施設に収容する隔離政策を行った。極端な例が、ナチスドイツのユダヤ人の強制収容施設です。ヒトラーの狂った命令だったとはいえ、巨大な施設を準備し、手足となったのは、ヨーロッパ近代の思想と技術、官僚です。

第2次大戦後、ヨーロッパはポスト近代に入り、施設への隔離収容から地域での医療、介護へと転換しました。専門のスタッフがいるグループホームを受け皿にして、社会復帰を目指す出口戦略をつくったのです。

一方、かつての日本では、精神病患者を座敷牢に閉じ込めて隔離していました。戦後になって座敷牢はコンクリートの病院に変わりましたが、精神病患者を隔離収容するという考え方は同じです。精神病院は、ヨーロッパの国家政策と違い、ほとんどが私立病院の営利政策任せ。近代からの超克の過程を踏まず今日まで至ったと言えます。

そう見ていくと、日本はまだ遅れてきた近代を引きずっていると言わざるをえません。その視点で見れば、中国もやはり遅れてきた近代国家なんです。ウイグル族の強制収容施設が世界的な問題になっていますが、少数民族の隔離政策は典型的な「近代」の発想といえます。

昨年、元農林水産事務次官が家庭内暴力の息子を刺殺した事件が起きました。ほかにも、カリタス学園バス停死傷事件や、吹田市の交番襲撃事件にも共通項があると思います。

それは、居場所がないから起こされた事件ということ。事件の背景にはさまざまな要因がありますが、その3つは孤独が引き起こしたとも言えると思うのです。

全国でフランチャイズ展開している「わおん障害者グループホーム」ですね。私は千葉県八千代市のグループホームを見学しました。住宅街を訪ねると、7軒の空き家を利用したグループホームが点在していました。

3人から5人が暮らすふつうの木造2階建てには、リビングやキッチン、風呂、トイレなどの共有スペースのほか、それぞれの個室がある。その7軒を生活支援者ら7人のスタッフがサポートする仕組みになっていました。

入居者は、精神障害、知的障害、身体障害、発達障害などさまざまな障害を持っていますが、ほとんどは障害者雇用枠で企業に雇用されて、収入を得ています。家賃や光熱費などの自己負担金はかかりますが、障害者年金と収入を合わせれば、余裕を持って暮らせる。こうした取り組みが、1兆4000億円の精神科入院費用削減につながっていくんですよ。

「わおん障害者グループホーム」がユニークなのは、アニマルセラピーによる癒やしの効果を期待し、1軒につき犬を1匹飼っていること。年間1万6000頭も殺処分されている保護犬を引き取り、各グループホームに供給しているんです。同時に、一軒家を借り上げるから最近問題になっている空き家対策にもなると思います。

「わおん障害者グループホーム」の取り組みは、医療費削減だけでなく、障害者の就労や自立、動物の殺処分問題、空き家問題、地域コミュニティの問題まで、日本が抱える不安を連鎖的に解決できる1つの処方箋になる可能性があるのです。

国民医療費43兆円のうち、医科診療医療費が31兆円を占めています。8兆円の薬局調剤医療費はあまり目立たないのですが、きちんと精査する必要があります。厚生労働省が場当たり的に「医薬分業」を進めた結果、薬局調剤医療費……とくに1兆9000億円の調剤技術料をわれわれが負担しなければならなくなった。

そもそも「医薬分業」自体は悪いことではないんです。欧米の先進国でも当たり前に行われています。日本では明治時代から「医薬分業」の必要性は訴えられていたものの、医師が収入源だった調剤権を手放さなかったために「医薬分業」が定着しなかった。

昔は医師が仕入れた薬を倍くらいの値段で、大量に処方していた。もちろん「薬漬け」「過剰投与」と批判された。医師だけが儲かる仕組みに対して、「それじゃまずいだろう」と厚生労働省は「医薬分業」へと舵を切った。

その結果、昔は当たり前だった病院内での処方が減りました。そして患者みんなが病院の外に並ぶ「門前薬局」で薬をもらうようになった。現在、病院内での処方は3割。残りの7割が病院外の薬局の処方されている。

政策コストがかかりすぎて、そのコストをわれわれ利用者が払っているから問題なんです。政策コストとは、政策を実現するためにインセンティブを与える費用です。「医薬分業」で言えば、医師、病院から薬剤師、薬局に調剤業務を移行させための必要な費用です。

その政策コストの1つが、先ほど指摘した調剤技術料です。調べれば調べるほど、1兆9000億円の調剤技術料にどこまで合理的な根拠があるのか疑問がわいてくる。

一例ですが、高血圧、糖尿病、不眠、胃炎の70代の患者が28日分の薬を処方してもらったとします。病院内の場合は320円で済むのに、「門前薬局」に行くと3450円もかかる。

それだけではありません。そのなかでも調剤料は、院内が90円に対し、院外が2400円。実に27倍ですよ。それに「お薬手帳」ってあるでしょう。あれも持っていても持っていなくても、380円かかる仕組みになっている。

結局、医師のボロ儲けを防ぐための「医薬分業」が、薬剤師がボロ儲けする構造になってしまった。

運動会で、隊列を組んだ子どもたちが、両手を挙げて大きな玉を移動させていく競技があるでしょう。調剤医療費を巡る問題を先送りしていくさまが、まさに大玉送りなんです。

2、3年で担当が代わる役人が長期的なビジョンもなく「医薬分業」を実現するために少しずつ修正した。そして「医薬分業」を達成してみると、必要以上に政策コストがふくらんで調剤技術料が1兆9000億円になった。

付け加えるなら「門前薬局」の増加が、薬剤師の雇用を生んで、薬科大学の定員が大幅に増えた。私学薬学部の定員は1990年代と比較すると2倍になっています。また人口1人あたりの薬剤師の数は諸外国に比べても飛び抜けて多い。増え続ける薬剤師が食べていくためにも、高額な調剤技術料が必要になる。そうした産業構造がつくられてしまった。

風景の変化は、自覚的に見ていかないと気がつきませんからね。私にも「門前薬局」の風景に違和感を持つきっかけがありました。

数年前、散歩の途中で立ち寄ったフェラーリ販売店の店主と雑談していると、チャラチャラした若者が店員と立ち話している。とてもフェラーリに手が届く収入があるようには見えない普通の青年でした。不思議に思って、店主に「あの青年は、冷やかしなのかね」と尋ねると「お得意さんです」と答えた。

聞けば、調剤薬局の経営者だという。実を言えば、そのとき「チョウザイヤッキョク」が「調剤薬局」と結びつかなかったし、聞いたあとも、なぜ調剤薬局がフェラーリを買えるほど儲かるのか分からなかった。

たとえば、1人で門前薬局を開業したとして、月20日間店を開けて、1日30人患者がくるとしましょう。受け付けしただけで支払わなければならない調剤基本料、調剤の数によって算出される調剤料、お薬手帳の料金など、薬剤費を抜いた技術料だけで“3450円×30人×20日=207万円”。これを年収にすると2484万円。経費を抜いて年収1000万円だとしたら、フェラーリにも十分手が届く計算になる。

医療や介護問題に限らず、いまの日本では、歴史的な視点が政治家にも専門家にも失われてしまっている気がします。社会がディズニーランド化してしまったと言えばいいかな。歴史の流れを見ようとしなくなった。

精神医療にしても「医薬分業」にしても、近代以降の連続性を見ていかないと問題の根っこは見えてこない。そもそもわれわれが日本人という意識を持ったのは近代――明治以降ですから。物事の本質をつかむには、明治時代に日本という空間が誕生して、日本の近代がスタートした時点にまで立ち返るしかない。

いま日本のIT業界の人たちが盛んに「電子国家」を掲げるエストニア詣をしているでしょう。エストニアは、公的サービスの99%が電子化され、24時間年中無休で利用でき、住民票などの変更も選挙も確定申告もパソコンやスマホでできるそうです。マイナンバーカードのようなIDカードが1枚あれば、免許証も健康保険証も、お薬手帳も必要ない。

でも、エストニアを礼賛する人たちには、近代への目線が欠けている。視点が軽いと言わざるをえません。

エストニアはスウェーデンやロシアから長い間、占領されていました。彼らはいつ領土が奪われるかもしれないという危機感がある。だから領土を奪われ、国民がちりぢりになっても国民と国の電子データさえあれば、国家を再建できるという考えから「電子国家」として存続していこうとしている。

私は国民国家とは、ある意味での会員制クラブのようだと考えているんです。会費を払えば、さまざまなサービスを受けられる。日本ではエストニアのような危機感は持ちにくいのはわかりますが、人口が減少し、高齢化が進むいま、国民国家を維持していく上で、ギリギリのところにきている。とくに問題なのが医療・介護です。ここを早く解決しないと日本は取り返しがつかないことになる。

政治家が地元しか見ていないからです。道路公団民営化のときも同じことを感じました。政治家は自分の地元に道路を敷きたい。高速道路が通らなければ、地元が寂れてしまう。地元をないがしろにしたら選挙に勝てない……。その気持ちは分からなくはないのですが、本来、政治家は天下国家を論じるべき存在です。地元だけを見ていると、国家の観点がなくなってしまう。

期待できるとしたら政権ですが、安倍政権は権力を持ったけれど、なにもやらない。権力があり、本気になれば改革できるはずなんですよ。だって、小泉さんは信念を持って郵政民営化をやり遂げたでしょう。

一方、官僚は当局の政策を立案する役割をになう。ただし担当者が2、3年で異動していくから、目先のことしか見ていない。長期で俯瞰する視点を持たず、予算なら前年度比を参考にして考えることしかできない。だから道路にしても、医療にしてもコストだけがどんどんふくらんでしまう。

将来を見通す政治家と実務を行う官僚がうまく補完し合う関係であればいいんだけど、現実はそうなっていない。近い将来、長期的なビジョンを持つ政治家が厚生労働大臣になり、私が書いた処方箋をもとに、医療・介護業界の改革に乗り出してほしいと考えているんです。