ハンニバル

ハンニバルは「戦勝を材料として同盟都市を離反させ、その上でローマを滅ぼす」という戦略を立てていた。戦勝の中でローマ本軍とその捕虜には厳しく接する一方、同盟都市の捕虜は丁重に遇してローマからの離反を促すメッセージを託して即時釈放するなど、工作を重ねていたのである。そうした戦いの中、不衛生な沼沢地の行軍などにより、疫病で左目の視力を失った。

勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、特に騎兵隊長のマハルバルが強く進言したが、ハンニバルは攻城兵器兵站の不足という戦略上の理由から、首都ローマへの進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図ることを決定する。この時、マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することは知らない」と言ったという。

戦勝を背景にした工作にもローマと同盟都市の結束は崩れず、このことがハンニバルの戦略的誤算として祟っていく。

確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマはハンニバルと戦うことで、ハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する程の強大な存在となっていた。

第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。

ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。直接選挙によって議員を任命することとし、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。ハンニバルの行政改革は効果を挙げた。そして改革の結果賠償金返済を完遂し、彼は軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。


「いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。」