【藤田晋】我々の目標は『21世紀を代表する会社をつくる』こと。全くなし得ていない。まだまだです。

起業家を目指すきっかけは少年時代に感じた、ちょっとした違和感だった。

福井県鯖江市の出身。

父が働くカネボウの社員住宅での生活に、言い様のない息苦しさを感じていた。

同じような部屋で暮らし、再生産される同じような日々……。

そこから抜けだしたいと考えたのが、起業家・藤田晋の原点だった。

「平凡な人生は嫌だなって思うようになったのです。『なんでもいいから何者かになりたい』と。子供の頃はスポーツ選手とかミュージシャンに憧れました。仲間の一人が本気でプロのミュージシャンを目指すことになった。それなら俺はレコード会社をつくるよ、と。高校3年生の時。それが起業家を目指したきっかけです」 

起業に踏み切ったのは、人材サービス会社のインテリジェンス(現パーソルキャリア)の新入社員時代。

すでにトップの営業成績を残していた藤田は自信満々だ。

ただ、何をするかは決めていなかった。

 「『21世紀を代表する会社をつくる』と明文化したのは起業3年目ですが、『すごい会社をつくろう』という思いはありました。そのために選んだのがインターネットでした」


■「悪魔に魂を売ってでも」 

藤田を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀だった。

サイバーエージェントに70%出資し、事業が軌道に乗れば藤田に株式を売る約束だった。 

(宇野)「彼は誰よりも朝早くに会社に来て、みんなが来る頃にはもう営業に行っていた。口で語るより行動で力をつけていく姿を見ていました。起業したいと言う人は多かったが、彼は覚悟が違った。夢ではなく明確な目標でした」 

宇野が「さっきトイレで思いついた」と言って藤田に提案したのがネット専門の営業代行業だった。

当時のネットベンチャーは技術者出身が多く、営業は不得手。それなら藤田の営業力を生かせると考えたのだ。 

藤田氏を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀氏(現USEN-NEXT HOLDINGS社長)だった

"宇野の考え通り、サイバーはすぐに軌道に乗った。

だが、藤田には違う思いもあった。 

「営業代行だけで『すごい会社』になるのは非常に難しいなと。自分たちでプロダクトを作らないとダメだなと思っていました。それを起業して半年ほどで見つけました」 

それがクリック保証型広告と呼ばれるシステムだった。この技術は、実はサイバーの顧客のものだが、藤田はそっくりそのままコピーしてしまった。今では許されざる行為と認める。

「当時は24歳。あらゆる手を使って成功に近づこうと思いました。それこそ、悪魔に魂を売ってでも。今ならあり得ないです。でも、当時はそんなことを考える余裕もないくらい必死でした」 

ところが、営業集団のサイバーには、そのシステムが作れない。

弱点を補おうと藤田が提携を持ちかけたのが、オン・ザ・エッヂという会社だった、堀江貴文が東大在学中に起業した会社で、システム構築を受託する技術者の会社だった。

堀江との出会いは衝撃だった。 

「自分に足りないものを堀江さんが持っていると、会った瞬間に感じた。彼らにとっても僕らが必要だと思いました。堀江さんとは波長は合うけどタイプは真逆。もし僕と堀江さんが学校で同じクラスだったら友達にはなっていないと思います。組織のカルチャーも真逆。我々(の会社)には技術者が居つかなかったし、オン・ザ・エッヂは営業とかマーケティングを我々に委ねていた。(両社とも)上場できたのはお互いのおかげだと思います」

 
■「堀江氏に嫉妬」 

二人三脚で坂道を駆け上がる藤田と堀江は、ともに「時代の寵児(ちょうじ)」と呼ばれるようになる。

だが、無名時代から堀江を知る藤田の目に、「ホリエモン」と呼ばれるようになった堀江は、別人のように映ったという。

 「堀江さんは当初、受託しかやっていなかったので金にシビアである意味、臆病だった。我々と組んだのもリスクを分散するため。要は(経営者として)慎重な人だった。ところが(2002年に)ライブドアを買収してプロ野球参入に手を挙げた頃からある意味、コツをつかんで世の中を騒がすことをやっていきました。フジテレビを買収しようと大きな借り入れをして勝負を仕掛けた時から『堀江さんは人が変わったな』と思いました」 

そんな堀江の姿を見て、藤田は初めて同世代の人物に嫉妬を覚えたと告白する。 

「当時は(ネット企業と言えば)『ヤフー、楽天、ライブドア』と言われていました。実態は自分たちとそんなに変わらないのに過剰に評価されている。そう思った時に『嫉妬するものなんだ』と感じました。それまではやきもちを焼かれることはあっても、逆はなかったですから」 

東京・渋谷にIT企業が集積し、「ビットバレー」ともてはやされた2000年前後、藤田はその代表格と見なされたが本人の思いは違った。 

「その時は自分の売り込み時だと思っていました。メディアで取り上げられるとお客さんも投資家も集まってくれて好循環が生まれる。ビットバレーを利用しようと。『魂を売ってでも成功する』のひとつです。ただ、浮かれている起業家も多かったので、実際にはビットバレーの集まりには一度行っただけ。あいさつを済ませて15分くらいで帰っちゃいました」 

試練は直後にやってきた。

2000年3月の上場直後からIT株は下落し始めた。インターネットバブルの崩壊だ。

「社長辞めろ」「福井に帰れ」。

藤田は一転、ネット上で激しくバッシングされるようになった。 

「当時の大変さを言葉にするのは難しいですね。サイバーエージェント株を買ってもらって損をさせてしまった人もいますが、関係がないのに怒る人が出てきて、炎上と同じ論理で火が燃え移っていく。(事業を伸ばすには)時間が必要だけど待ってくれる雰囲気ではない。今だと経験を積んでいるので開き直れるけど、当時は若かった。もう昏倒(こんとう)しちゃって、自信をなくしてしまった」


■「お前の会社なんていらねぇよ」 

そこに2人の男が現れた。

GMOインターネット創業者の熊谷正寿と、通称「村上ファンド」を率いる異色の投資家、村上世彰だ。

2人はそれぞれサイバー株を買い集めていた。

「藤田君を味方に付けたかった」という熊谷は事業提携に次いで合併を持ちかけた。

事実上の買収提案だった。 

「犯罪人みたいに扱われていたので株を買ってくれる人はありがたかった。僕を経営者として評価してくれる人はゼロだったので。でも身売りしてしまうのは違うという考えはありました」 

一方の村上は「減資して株主に現金を返すべきだ」と迫った。

サイバーは上場で225億円を市場から調達したが、村上が藤田に聞いても納得のいく成長戦略が返ってこない。

それなら会社の清算も考えるべきだと言うのだ。 

村上さんはアイデアをお持ちで、会って意味のある投資家。ただ、会社としての可能性も僕の経営者としての可能性も全く評価していなかった。目の前にある現金と事業を比べると減資して事業を絞り込むのがベストという考えでした。村上さんなりの正義があり、その視点から見れば正しい。でも、それではその前に僕に対して投資してくれた人には報いることができない。だから受け入れられなかった」 

事態は切迫していた。

実は藤田は株価低迷で士気が下がる現場に報いようと自分の持ち株を無償で社員に配布していたのだ。

藤田の出資比率は34%から23%に低下。

もし、熊谷が村上から株を買い取れば会社が乗っ取られてしまう。 

強引な買収を良しとしない熊谷は、あくまでも藤田の了解を待つ考えだったが、合併を諦めたわけではない。

市場からは「無能の経営者」とのレッテルを貼られ自信を失った藤田は、思い詰めた。

後ろ盾だった宇野に、サイバーの買収を持ちかけたのだ。

どうせなら宇野にサイバーを引き継いでもらいたい――。

そう考えた藤田だったが、宇野の答えは非情なものだった。 

「お前の会社なんていらねぇよ」 

宇野はそう言い放った。

ぼうぜんと立ち尽くす藤田。 

「頭の中が真っ白になりました。自分なりに腹を決めて言ったので……。どこかに放り出された気持ちでした」 

しかし、これは宇野流の叱咤(しった)激励だった。

宇野はこの後、藤田を救うべく奔走する。

白羽の矢を立てたのが楽天創業者の三木谷浩史だ。

ある人物を介して三木谷にサイバーへの救済出資を申し入れていた。

村上にも「このへんで手を緩めてもらえないでしょうか」と頭を下げていた。

実は宇野には負い目があった。

藤田が窮地に陥る原因となったGMOによるサイバー株の取得。

これは宇野が創業したインテリジェンスの社長になっていた鎌田和彦がGMO社長の熊谷に持ちかけたものだった。

宇野は当時、実父に頼まれて家業の大阪有線放送社(後のUSEN)を継いでいたが、インテリジェンス会長も兼任しているため経緯は承知している。 

(宇野)「実はインテリジェンスの投資家からサイバー株を売却すべきだと何度も意見を受けおり、社長の鎌田から相談されました。そちら側の論理は否定できず(サイバー株を売るのは)致し方ないと思いました。GMOに売却することでそうなる(藤田が追い込まれる)とは思っていなかった。だから、私が事態を整理する責任があると思いました」 

楽天からの出資を受けて窮地を救われた藤田はその後、村上から何度も撤退を提案されていたメディア事業の強化に力を注ぐ。

村上だけではない。市場関係者からの冷たい視線はそれから数年間変わらず、サイバーの株価は低迷し続ける。


■「歴史が証明した」

だが、もう藤田に迷いはなかった。

アメーバブログのヒットとともに株価は底を脱し、動画配信のアベマTVも抱えるメディア事業はサイバーの主力事業へと育った。

「あの時、村上さんの言い分を聞いていればサイバーエージェントもここまでは来なかったし、僕という経営者の可能性もあそこで絶たれていました。歴史が、どっちが正しいかを証明したと思います。あれより大変なことでなければなんとも思わなくなりました。その後も色々とたたかれ、トラブルや危機もあったけど、当時よりはマシだということで克服できました」

 「有事こそ変革を起こせるチャンス」と語る最近の藤田氏創業から10年目の夜、藤田は自らのブログにそれまで味わった数々の苦難を挙げ、最後にこんなことをつづった。

「悔しくて、見返したくて、いつか全員黙らせたくて」。

今は何を思うのか。

起業家は長い時間軸で自分が正しいことを証明するしかない。

そんなに甘いものじゃない。

でも、(もし過去に戻っても)絶対にもう一度やりますよ。

これほどやりがいがあって大変で、しかも退屈しないものはないから。 

20年前の逆境が一人の起業家を変えた。

現在は全世界が新型コロナウイルスという見えない恐怖に直面している。

未曽有の危機を前にしても藤田に気負いはない。

「有事こそ変革を起こせるチャンス。それに我々の目標は『21世紀を代表する会社をつくる』こと。全くなし得ていない。まだまだです。世界に通用するプロダクトをつくるべく、粛々とやっていきますよ」