「記憶は揺れるし、真実は変わるものだ」

母は記憶に関する研究をしていて、「記憶は変わらないものだと思われているけれど、実は変わる」という話をしてくれたことがあります。実社会への応用として、事件の目撃証言の信ぴょう性を定量的に証明する、というようなことをしているようです。

「記憶は揺れるし、真実は変わるものだ」

その研究に関連して子どものころ、アウシュビッツ強制収容所に連れて行ってもらったことがあります。あそこって、14歳以上が望ましいという入場制限があるんですよね。刺激が強すぎるから。行ったのは、小学校4、5年のころだったと記憶していますが、けっこう強烈な体験でした。

あと、2人が研究者だったからか、昔からパソコンが家にありましたね。それこそApple Iから始まって、歴代のMacが家の中にゴロゴロありました。そういう環境は、今の仕事にもつながっているかもしれません。

保育園のころから、母の研究室で遊んだり、学生さんと交流したりしていたので、研究室の環境には親しんでいました。大学のすぐ横に家があったこともあり、そのときは家にも学生さんがよく来ていましたね。

働くという構えた感じでもなく、すごく楽しそうなことをやっているなと思っていました。大学を卒業してから1年くらい、北海道に赴任していた母のもとに居候してたことがあるんです。そうしたら彼女、朝4時とかまで机に向かっているんですよ。もうそのとき55歳くらいだったのに。本当に仕事が好きなんだと思います。

そうですね。両親ともけっこう非常識というか(笑)、長いものに巻かれるやつはいけてない、みたいな価値観の家で育ちました。周りと違うエピソード、たくさんありますよ。小学校に入学した時も、クラスで私だけランドセルじゃなくて、普通のリュック。プールの授業でも、みんな、ゴムが入って輪になっている、てるてる坊主みたいなかわいいタオルを使ってたけど、私は適当にタオルを3枚くらい縫い合わせた「みのむし」みたいなのを持って行かされました(笑)。

母はやたら自然素材にこだわっていて、お弁当も玄米や黒糖を使ってて全体的に茶色かったし、洗剤もエコなやつだから洗浄力がなくて全然落ちない。1人だけ茶ばんだ体操服を着てて、それが、すごく嫌だったなあ。

そういうの、気にしない親だったんですよね。私は小学校2年生くらいまでは、すごく気になって恥ずかしかったけど、3年生くらいからはもう気にならなくなりました。そのころから、変わっていることに対する耐性がついたんです(笑)。

これがまったく勉強しませんでした(笑)。もともとすごく社交的な人間で、クラスでもみんなとワイワイやるのが好きだったんですよ。でも高校で留学したら、英語ができなくて引っ込み思案になった。だから勉強に明け暮れていたんですが、日本に帰ってきてまたソーシャルな方向に戻ったんですよね。

起業サークルをつくって、中小向けのホームページ制作会社を立ち上げました。また、ミス・コンテストの企画を立ち上げてその実行委員をやったり、大学生向けのフリーペーパーを制作したり、いろんなことをやってましたね。そういう学生って結構多いと思うんですけど。

3年生くらいまでは、就職しないで自分で何かやれたら、と思っていました。でも、自分たちでつくった会社が、どこに向かえばいいかわからない状態になったんです。それで、そこから逃げて就職したいという気持ちも出てきました。

その会社は、なぜ方向性を見失ってしまったんでしょう。

目的がなかったからでしょうね。それが失敗の原因でした。世の中には、起業自体が目的になってもいい、という人もいます。とにかくチャレンジしてみろと。でも私は、それだとつらいときに踏ん張れなかった。私の場合は、おもしろくないとがんばれないということがわかったんです。おもしろいことやるための手段として会社をつくるならいいのですが、会社をつくることを目的にはできない。それでもう、起業はやめよう、と思いました。

そこからゴールドマン・サックスに就職したんですよね。その理由は?

世界一優秀な人たちがいる環境で働いてみたい、という思いがあったからですね。一方で、「就活」自体が手段ではなく目的化して、レースのようになっていたのもたしかです。

入社してから、就活、ひいては職業自体が手段だと気づくんですけど、入ってみないとわからないものですよね。私はそもそも金融に興味がなかったのですが、一緒に働くメンバーに惹かれたのと、世界ナンバーワンの企業で働いてみたいと思って入社したので、余計そう思いました。

すごくいいところでした。みなさんすごく優秀で、企業としてのカルチャーも素晴らしかった。ナンバーワンであることの誇りをみんな持っていて、全力でコミットするんですよね。でも、入社して半年くらい経ったときにリーマン・ショックが起きて、社内の雰囲気が一変してしまったんです。入社の決め手だったチームメンバーも、次々と辞めてしまった。

もし、リーマン・ショックがなかったら今でもゴールドマンで働いていたかもしれません。それくらいチームは好きでした。先輩方のことは、今でもすごく尊敬しています。あのメンバーで、金融ではなく映画やウェブサービスをつくるとなったら、今だって、めちゃくちゃやりたいです。

それでゴールドマン・サックスを辞めてから、今度は漫画を描くために北海道に移住されたとか。またすごい転身ですね(笑)。マンガはいつから描いていたんですか?

とりあえず独学でプログラミングを学び、「Magajin」というマンガ投稿サイトのプロトタイプをつくってみたんです。それを広げるため、そして作りこむためにどうしたらいいのか考えてたとき、IT関係のイベントでFacebookの日本法人代表の方と知り合いになりました。そうしたら、Facebookの仕事をやらないかと誘っていただけて。

そうなんです。だけど、二足のわらじでもいい、と言っていただけたので、とりあえず週の半分くらい働ければと思ってFacebookに入りました。そうしたら、やっぱりFacebookはすごくおもしろかったんですよね。

ゴールドマン・サックスとFacebookって、アメリカのまったく違う面を代表する会社ですよね。両方経験してみて、いかがでしたか?

投資銀行はキラキラしていて、みんなプライドを持って胸を張っている。高貴な感じでした(笑)。マーケット部門にいたので、勤務時間はみんな鼻血が出そうな勢いでガーッと働いて、時間が来たらサッと帰る。メリハリがありました。Facebookはみんな夜中までわーっと作業して、疲れたら寝袋に入って寝て、復活してまた働く、みたいな感じ。大学時代にアルバイトしていたベンチャー企業と似ていたので、こっちのほうが自然な環境でした。働き方の違いはあるけれど、働いている人のレベル感やコミットする熱量は、あまり変わらないと感じます。

「ビジョン」と「カルチャー」と「スキル」の3つの円が重なる図なんですけど。

中国やインドネシアの人って、まだお金が自分の幸福、ひいては家族の幸福だから、100円でも時給が高かったら転職するんですよね。日本も高度成長期のころは、そうだったと思います。それって、自分のスキルをお金で売るっていう考え方なんです。旧態依然としたリクルーティングの媒体は、スキルをお金に換える発想でつくられてるんですよ。だから、年収で検索ができて、上から5番目までエントリーする、というような使い方をする。

でも、日本は豊かになって、お金よりもやりがいを求める人が増えてきました。Wantedlyの場合、企業ページの条件に報酬は書かないでもらっています。それよりも、「Why」「How」「What」といった部分を重点的に書いてもらう。それはビジョンですよね。そしてFacebookでリンクしているので、どういう人がいるのか、その人と共通の友人はいるかということがわかります。

そして、メンバーに会えるシステムも組み込まれている。カルチャーっていうのは、会社の中にどういう人がいて、どういう価値観で仕事をしているかという、人の集合体のことですよね。つまりWantedlyはビジョンとカルチャーがよくわかるようにつくられている。それが従来の媒体との違いです。ビジョンとカルチャーがマッチングできれば、スキルはあとからついてくると思うんですよ。