いきなり「わたしはこう思いました」と書いても、読んでもらえない。
ひとに読んでもらうための武器は「調べる」です。 このペットボトルの水だったら「お、なんかちょっと水道の水とちがうぞ」「群馬県の嬬恋で採水した水なのか」「嬬恋の水って、どんな水なんだろう」「調べてみたら江戸時代に水で争いが起こってた」 いや、この水がおいしいって言いたいだけなんですけど、「こういう理由で調べに行ってみました」「調べてみたらこんなことがわかりました」「だから私はおいしいと思ったのかも」そう書けば、ちょっとは読んでもらえるかもしれない。
わかったつもりになって書くと、だいたい失敗します。 ターゲットやペルソナの設定は要らないんです。読者なんか想定しなくていいんです
あと、よく言うでしょう、「たったひとりの誰かに手紙を書くように」って。それはLINEしてください、既読つきますから。
『読みたいことを、書けばいい。』で、自分に向けて書くんです。 自分に書く、読み手として書く。これは糸井さんからいただいた金言です。
自分が好きなものについて書こうとしたら心象のほうが前に出てしまうけど、たとえば自分が知らない食べものについて書くときは、好きより前に知らないですから、調べに行く。
それでもいろいろ感想をあさってみて「誰もわたしが面白いと思ったことを書いてないなあ」というときに、はじめて自分が書けばいいんです。自分に向けて書けばいい。
だって、自分が読みたいから。自分が一番感動したところを書いてるひとがいないから「あれ? じゃあ、わたしが書くの?」ってことですね。
「何を書いたか」より「誰が書いたか」と言いましたけど、もっと大事なことは「なぜ書くか」。そこに感動がなければ、書く意味がないんです。
感動がない状態で書くのが一番しんどいですよ。逆に「最高につまんない」なら、書けます。それはそれで「つまらない!」という感動で「けなし芸」ができるけど、そうでもない、ぼんやりしたものは、もう1回調べに行くしかないんじゃないですかね。
調べるときは「一次情報に当たる」というお話がありましたが、どのように当たりをつけるのでしょう?
まず大事なことは、司書の方に相談することですね。キリがないですから。
「これを調べてるんですけど、どの本がいいですか」「この本がいいです」「こういうことを知りたいんですけど」「だったら、この本のこのあたりですよ」
国会図書館に行くとしても、本を書庫から出してもらってページをめくる前にオンラインのデジタルコレクションでバーッと見て「ここをマイクロフィルムにしてもらおう」って、だいたいの当たりをつけてから行くといいです。無限の文字をぜんぶ読む必要はないですね。
サイエンスの世界でいうと、「仮説」ですよね。仮説のセンスはすごく大事で、「すぐれた科学者とそうでない科学者の差は“仮説の立てかた”の違い」仮説が的を外していると時間が無駄になりますから。 これはノーベル賞を受賞した利根川博士の言葉です。利根川博士というのは、「関東平野の利根川に詳しいおじさん」ではありません。
文献をバーッと見渡したときに「このへんだ」って見つけるスピードがなかったら間に合わないですよ。それはもう、ページのめくり力。その「当たりのつけ方」を教えてくださいといわれても困ります。「バットにボールをどう当てるか教えてください」「いや、当てるんだよ」と言うしかないわけで。
「もしかしたらこっちにヒントがあるかもな」と、哲学の本とか動物行動学の本なんかを買ってきたりして、遠いところからヒントをもらいに行ったりします。
ある本の中で、関係ないことを結びつけてくれたときの、読んだひとの喜びって尋常じゃないんですよね。あれは、すごく大きな、読書の喜びだと思います。
調べる前に当たりをつけるのは、最初は難しいかもしれませんが、でも、いっぱい調べていくうちに当てずっぽうが当たるようになってくると思います。あとはやっぱり、ひとに当たりをつけてもらう。図書館では、司書さんに相談です。この中で司書さんに相談したことあるひといます?司書、ホンマ感動するよ。「やっぱり本のプロやなあ」って。
自分を売る気はさらさらない。田中泰延って本名出して、顔写真出しても「メタボ」とか「ぬいぐるみ」しか言われないよ。でもそれがどうした、挨拶はするよ。俺は匿名じゃねえぞ、って。
これは言っておきたいんですが、(ツイッター等で)顔を隠して匿名で何か書いても得るものは少ないと思いますよ。顔と名前を隠して何かを得ているのは「MAN WITH A MISSION」のみなさんぐらいです。彼らは顔を隠して、匿名で得てる。でも、あれぐらい芸がないとダメだということです。 ふつうのひとは名前と顔出して「○○でございます」って始めたほうがいろんな物事が広がっていくし、少なくとも「人間なんだ」と思ってもらえる。 強制はしないけど、たとえばツイッターをやるとき、「ケミカルりんぽっぽ3号」って名前でわけのわからんアイコンでやるよりいいと思う。
まず、やっぱり、ひとを傷つける可能性があることは書かないようにはしています。そもそも、テーマとして選ばない。
僕の場合は「映画が面白かった」とか、事象を選んでます。間違えても「何か言いたい」ということでは書かない。 「何か言いたい」のが今の社会じゃないですか。たとえば先日も京都で悲しい事件がありましたけど、ああいうことが起こると、みんな、何かコメントしなくちゃいけないと思ってしまう。 でも、しなくていいんですよ。だって、関係がないんですから。本当に関係あるひとは、むしろ、ツイッターやフェイスブックにコメントしたくないはずです。ということは、誰も書かなくていいんです。報道という仕事に就いているひとは別ですが、それ以外のひとは書かなくていいんです。
自分が本当に幸せに生きていくために、「これはタッチしない」という領域を決めておくといいんじゃないですかね。
他人のやることに嫉妬してもしょうがない。
敵対心を燃やすよりは誰かを手伝ったり、手伝ってもらったほうが便利じゃないですか。そもそも何をもって相手を倒すのか。だから気にしないか、そのひとと協力して何かやるほうがいいんじゃないですかね。
僕が勤めていた電通の中でとったポジションは、だれかが面白い案を出してきたら「(拍手しながら)それは面白い! 最高! 明日のプレゼン、ばっちり! ‥‥じゃ、僕は飲みに行きます」24年間、それだけだから(笑)。 でも面白いのは、それをずっと続けてると「田中、これ面白いと思う?」ってまわりが聞きに来るようになるんだよね。 で、もし面白くなかったら「もうちょっと考えたほうがいいんじゃないですか?」と言って、俺はひとりで飲みに行く。面白かったら、ふたりで飲みに行く。どっちにしても飲みに行く。
「評価は他人が決める」「他人がどう思うかはあなたが決められることではない」「他人の人生を生きてはいけない」
会社員だったときはやっぱり「評価を気にするな」というのは難しかったです。組織があって、査定があるから、評価を気にせず生きていくわけにもいかないし。 でも『嫌われる勇気』でアドラーの心理学に触れた影響は大きいかな。 ちょっと褒められて1万円多くもらって「それがどやねん」って思わない限り、なかなか他人の評価からは抜けられない。その覚悟が、あるかどうか。
不安やけど「不安と一緒に生きて行こう」と思う、それが一番の覚悟じゃないですかね。安心なんかないから。
不安を消すのが覚悟ではなく、「不安と一緒に生きていくと決めること」、それが覚悟じゃないでしょうか。
書く仕事が向いてないと思うときがあります。自分が読みたいと思える状態になるまで、どうしても書き上がったと思えなくて。
インタビューでも「相手のここが好き」と出会えないと、原稿の終わりがまったく見えないんです。書くことを仕事にする上で「自分が読みたいことを書きたい」思いは、かえって枷になっちゃうのかなと。
僕は今日、頼まれた原稿のしめきりが4日過ぎてます。でもこれだけは覚えておいてください。しめきりは「相手の都合」です。 しめきりというのは発注してるひとが何月何日までにお金が欲しいから言うてるだけで、自分が納得してない原稿を相手の都合で渡したら、そこから人生ガタガタになります。 会社を辞めて、糸井さんに相談したんです。「チョロチョロ書いて生きていこうかと思うんです」って。糸井さんはこうおっしゃった。 「コンビニエンス・ストアとかガソリンスタンドで真面目にはたらきながら書くのがいいんじゃない?」 書くだけで生きていくんだったら、受注して何月何日までに原稿納めて15万円もらいます、というサイクルにすぐ入るでしょう?「それではダメだ」と先んじておっしゃった。
だから「書くことを仕事にしよう」「これで食っていこう」「自分は向いてるか向いてないか」なんて考えてもキリがないんじゃないかな。 書くことは書くこととして、ある。で、「納得いかないとやっぱりイヤなんです」って部分は大事にされたほうがいいと思います。
「最初にうまくやらないと決める」という言葉と「読みたいことを書けばいい」との狭間で葛藤があります。
読みたいと思えるところまで書きたい。そこにたどり着こうとすると、最初に決めた「うまくやらないと決める」からすごく離れてしまうんです。
下手な文章、自分で読んで楽しくないですか?下手でも一生懸命書いたら面白いですよ、たぶん。
でも、信頼を失ってしまうんじゃないかって。
言ってしまえば田中さんは、「待たれているだけの魅力」をずっと振りまきながら時間を使っていたわけで。しめきりに間に合わなかったら切られちゃう、誰々に負けちゃう、みたいな場所にいること自体が「魅力がない」んだよ。
ああ‥‥うう。
たとえ中身に何が書いてあっても「田中といる時間」が面白ければ本になる。
まあでも、塾生の方がおっしゃる気持ちもわかります。自分が読みたいものをうまく書かれへん、そういう時間が長いでしょ。でも、やっぱりしょうがないですよ。
どんどんつまんないもの書いてさ、恥かくことだよね。どうせつまんないんだから。
やっぱり1行目から「どうも、田中泰延です」って書くと思う。それしかできないんだもん。 だから「そういうのは求めてないよ」と言われても「そうですかね。僕はひとと挨拶します。○○さん、僕と会ったとき、お互い挨拶しましたよね」って返すと思う。
それは、いまおもしろい記事を書いてる人は、たいていやってますね。たぶん、本当のことを言いたいからなんですよ。
それ、つぶされたことがあるんです。「お前が求められているわけじゃないから」って。
「お前」の文章を求めてるわけじゃないんだけど、「お前がお前で書いてるものが面白いから、これからはそっちにしなさい」って言われたら勝ちなんだ。
たぶん、いま記名で書いているひともさ、いちばん最初は「お前、こんな発注してないよ」ってぜったい言われてたと思う。 でもやり続けたから「どうも○○です」になったんだもんね。うん、やるしかないですね、それ。‥‥というあたりで、終わりにしましょうか。
つまり、あなたがどう思うかは、「誰も興味がない」。