行きて帰りし物語と伏線回収

行きて帰りし物語」がなぜ物語のテンプレートになるくらい強いかというと、不安な場所から戻ることで読み手の心に安心感を与えるからで、そういう意味では音楽理論ドミナントコードの役割と似ている。


ミステリにおける伏線も似たようなところがあって、伏線張れるだけ張って未回収で終わると読み手はモヤるけど、回収することで心がスッキリする。

ゲームは時代劇化しつつある。例えば「関ヶ原」なんて見ずともストーリーはわかりきってるんだけど、誰が演出するかや誰が石田三成やるかという演技の部分に違いを見て楽しむじゃないですか。土台のコンテクストが共通化すると、新しい表現で再体験したい欲は確実に存在して、関ヶ原のようにバイオ2も未来の技術で繰り返し何かを変えつつ再構築されて、我々は何度も目撃することになるんだよ。きっとこの先何度も楽しむことになる。
 
「最強のコンテンツと最強のコンテンツを足したらやはりそれは最強なのか」というとそんなことはなかったという話。昔、「とんかつパフェ」というパフェにとんかつ刺したデザート?的なものを食べに行ったことがあるんだけど、溶けたクリームがとんかつに染み出してマズかった。単体でそれぞれ食べたほうが美味しいこともある。別に悪いゲームじゃないんだけど、90点と90点を掛けたら81点になったというか、そんな感じなんだよな。

ゲームは、厳密に言うとルール部分とテクノロジー部分に分解できる娯楽だと思うのよね。ルールというのは、将棋やトランプで言うところの駒の動き方などの「決め事」の部分。これをテクノロジーで実現したのがテレビゲームで、「ルール×テクノロジー」のどちらかの変数が変われば、新しいものが生まれる。そういう意味では、技術が進化し続ける限り新しいゲームは生まれ続ける。

「選ぶ」ことができるのが小説や漫画や映画にないゲームのいいところ